2007年10月30日火曜日

僕らのナマカ赤胴鈴之助

 ♪がんばれ 頼むぞ 
  ぼくらの仲間 赤胴鈴之助
  懐かしい「赤胴鈴之助の歌」が流れていた。

 ぶらり散歩に出る。新横浜の「ラーメン博物館」。館内は昭和30年代の雰囲気に満ちていた。オーシャンバー、駄菓子屋、露店、学校給食のあげパンも売っていた。そんななかに札幌けやき、熊本こむらさき、荻窪春木屋など全国有名ラーメン店が配置されている。

 赤胴鈴之助は小学生のころ熱狂した漫画である。少年向け漫画雑誌「少年画報」に連載された。武内つなよしの原作と永らく思っていたら、1954年(昭和29)少年画報で第1回が掲載されたところで福井英一という方が急死したため、その後を武内つなよしが受け継いだということを、この原稿を書くにあたり初めて知った。

 鈴之助は神田・お玉が池の北辰一刀流の千葉周作道場の少年剣士で、父親の形見である赤胴をつけることから赤胴鈴之助と呼ばれる。
 少年ながら剣の達人で「真空斬り」という必殺技を持っている。心と技を磨き、成長しながら幕府転覆を企てる鬼面党と対決したり――冒険ありチャンバラあり、胸躍らせて愛読したものだ。

 ラジオドラマ(ラジオ東京、後のTBSラジオ)でも放送され、ヒロインの千葉さゆりには吉永小百合が出演していた。映画では大映で鈴之助を梅若正二が演じていた。

 そう言えば、小島三児、原田健二とコント集団トリオ・スカイラインを組み、バカ役を演じていた東八郎がギャグに使っていたっけ。
 ♪がんばれ 頼むぞ
 ぼくらのナマカ 赤胴鈴之助

2007年10月29日月曜日

和宮の「空蝉の唐織ごろも」

 ぶらり散歩に出る。
 東京・上野公園にある国立博物館で「大徳川展」を観た。徳川将軍宗家はじめ、尾張・紀伊・水戸の御三家、久能山・日光・尾張・紀州・水戸の東照宮などに伝えられる名品・宝物の数々300余点が一同に会する、まさに「大」がつく催しといえるだろう。
 絢爛豪華。将軍の往時の威光に感心した。

×  ×  ×

 14代将軍の徳川家茂が皇女和宮に贈った西陣織が展示されていた。これが、あの「空蝉(うつせみ)の唐織ごろも」と思いを馳せる。
 以下は、日本史好きの方ならご存知の話だが、なぞらしていただきたい。

 幕末。150年ほど前のことである。皇女和宮は1861年、14代将軍・徳川家茂に降嫁した。ともに16歳。政略結婚だった。
 ペリー来航(1853年)以降、徳川幕府は弱体化し体制は大きく揺らいでいた。なんとか天皇家の力を借りて政権地盤を固めようとする公武合体政策にそって姻戚関係を築こうとしたのである。
 いやいや江戸に下った和宮だが、13代将軍正室の天璋院との確執やら生活習慣の違いから泣きの涙で暮らすが、ただひとり味方になったのが家茂だった。いつしかふたりは仲むつまじい夫婦になっていく。
 1866年第2次長州征討(幕長戦争)が起こり、家茂は出征するが、大阪城で病に臥し、死去する。享年20歳という若さだった。
 この長州征討の折、まさか死ぬとは思っていない和宮は家茂に土産を所望する。それが西陣の織物である。家茂の死後、側近から織物を手渡された和宮は、病中にも土産を忘れていない家茂を思い号泣するのだった。

 そのとき詠んだのが、
「空蝉の唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
という歌である。

×  ×  ×

 家茂は和宮を一途に愛し側室を設けなかったというが、本当だろうか。

2007年10月26日金曜日

♪ああ 哀愁の街に霧が降る 

昭和31年編

夕刊の小さき訃報に
♪ああ 哀愁の街に霧が降る
と口遊(くちずさ)む

×  ×  ×
 山田 真二さん(やまだ・しんじ=元俳優、元歌手、本名山田常高=やまだ・つねたか)が10月15日、間質性肺炎で死去、70歳。葬儀は親族で済ませた。映画「三四郎」などに出演し、「娘が口笛吹く時は」で1959年のNHK紅白歌合戦にも出場した。
×  ×  ×
 
 山田真二は東宝の二枚目映画俳優であったが、同時に歌手でもあった。印象に残るのは「哀愁の街に霧が降る」のヒット曲である。作詞・佐伯孝夫、作曲・吉田正の鉄壁コンビの1956年(昭和31)の作品。
 
 昭和31年の経済白書では「もはや戦後ではない」と記されている。敗戦の傷跡も癒え、ようやく日本株式会社が高度成長の軌道に乗り出したころだろうか。
 
 同年のヒット歌謡曲には、
三橋美智也の「リンゴ村から」「哀愁列車」
島倉千代子の「逢いたいなァあの人に」「東京の人さようなら」

曽根史郎の「若いお巡りさん」
大津美子の「ここに幸あり」
美空ひばりの「波止場だよお父つぁん」
鈴木三重子の「愛ちゃんはお嫁に」
コロムビア・ローズの「どうせひろった恋だもの」
三浦光一の「東京の人」
などがある。

 球音は個人的に「哀愁列車」(作詞・横井弘、作曲・鎌多俊與)の一番の歌詞
旅をせかせる ベルの音
未練心に つまずいて
と、いう2つのフレーズにしびれるのだ。

2007年10月25日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅵ

 「黒い霧事件」に端を発した暗雲は、リーグ全体に垂れ込めていた。1965年(昭和40)から読売ジャイアンツが9年連続で日本一に輝き、人気面でも後楽園球場の巨人戦は大入りを続けていたが、パリーグは不入りが常態化していた。

 ロッテには永田の大映が撤退しロッテが球団を引き受けたものの東京球場の賃貸契約問題があり、西鉄には球団譲渡先を探さなければならなかった。さらに東映フライヤーズにも火種があった。
 1971年8月、東映の社長であり球団オーナーの大川博が肝硬変で急死した。永田雅一と並ぶ野球好きの名物オーナーだった。1962年水原茂監督のもと張本勲、土橋正幸、尾崎行雄らの活躍で日本一制覇し、背番号100をつけ優勝パレードを行っている。
 後任社長は敏腕プロデューサーとして名高い岡田茂が務めることになった。岡田は本業の映画が経営不振の折、儲からない球団経営には消極的だった。球団存続が囁かれていた。

 1972年秋、西鉄の譲渡先探しに奔走した中村長芳は外資系の飲料メーカーであるペプシコーラと交渉、契約寸前まで漕ぎつけた。ところが東映の球団身売り騒動が持ち上がった。
 ペプシコーラはごたごた続きのパリーグ球団の経営参画は得策でないと判断し、交渉を打ち切った。さらに中村は音響メーカーのパイオニアにも声をかけたが、話はまとまらなかった。
 西鉄の見売り先が見つけられない中村は、私財を投じて金を工面し西鉄を買収し、個人会社福岡野球株式会社を設立した。複数球団の所有はできない協約に従い、ロッテのオーナー職を降りた。1973年からはゴルフ会員権売買の太平洋クラブ(後にクラウンライター)と提携先を開拓しながら、なんとか6年間球団を維持したものの、経営破綻をきたし1978年西武グループの総帥、堤義明に球団経営の引継ぎを要請した。福岡の地から離れ、ライオンズは西武ライオンズとして埼玉県所沢に本拠地を移転する。福岡に球団が戻ったのは、1989年まで待たなければならなかった。ダイエーが南海ホークスを買収し、福岡に本拠を移転した。2005年からはダイエーから経営権はソフトバンクに移っている。
 一方、東映はキャンプが迫った1973年1月、岡田茂と東急グループの五島昇が球団を不動産開発、貸ビル事業、パチンコ業の日拓ホームに売却することを決断した。その日拓ホームは1年で球団を手放し、1974年からは日本ハムが球団経営を行っている。蛇足ながら、この10月8日にタレント神田うのと結婚した西村拓郎(日拓ホーム代表取締役社長)は、球団買収した日拓オーナー西村昭孝(日拓ホーム代表取締役会長)の長男である。

 さて東京球場に話を戻そう。
 
 1972年のシーズンオフ。西鉄の譲渡先は中村が福岡野球株式会社を立ち上げ、なんとか落着した。複数球団のオーナーにはなれない野球協約の縛りがあり、ロッテはオーナー不在となった。後任には表舞台を固辞していた重光武雄がやむなく就いた。重光は旧知の400勝投手、金田正一を監督に迎えることになる。
 「角福代理戦争」の様相を呈していた東京球場問題は中村が去り、障害をひとつ越えたことになったが、新監督のカネやんこと金田が不要論と唱えた。理由は投手出身らしく左中間と右中間が直線的でふくらみがなく本塁打量産しやすく、投手泣かせ球場であることだった。余談だが、東京球場で11年間にセパ合わせて841試合が行われ、1,914本の本塁打が飛び交った。1試合平均2.28本と、なるほど本塁打量産球場だった。
 
 国際興業の社主である東京球場の経営権を握った小佐野賢治は、「このまま貸し球場として持っていても採算はとれない。球団と球場は一体的に経営するが理想」と、新オーナーの重光に買取りを強く求めた。実際に当時のロッテ本社があった東京・西大久保に足を運び直談判している。しかし、ロッテは従来通りの賃貸契約を望み、交渉は平行線を辿ったが、「東京球場を買うくらいなら、その金を補強に回してほしい」という金田の強硬意見もあり、交渉を打ち切っている。以来ロッテは1973年から1977年までの5年間仙台を中心として渡り歩く流浪の球団となった。1978年からは川崎を本拠とし、1992年からは千葉ロッテとして今日に至っている。
 ロッテの断に対し、小佐野は「儲からない球場は廃業し閉鎖する。来シーズン以降は使用させない」とした。

 東京球場のプロ野球常設球場の歴史はわずか11年の使用でここに閉ざされたのだった。

 球場閉鎖から35年の歳月が流れた。ラッパと言われた男が大好きな野球を自前の球場で選手にやらせたい、採算など度外視して作った夢の球場(フィールド・オブ・ドリームス)であった。1985年(昭和60)永眠。死後の1988年、日本の野球の発展に大きな発展と貢献した野球人を永久に讃える野球殿堂入り(特別表彰)を果たしている。
 
 その顕彰文には以下のように記してある。
昭和23年プロ野球大映チームのオーナーとしてリーグに加盟すると、映画制作同様たちまち球団経営にも行動力を発揮し、24年には二リーグ分立の推進役を果たした。パ・リーグの人気高揚を願い、またフランチャイズ制の理想的な確立を求めて東京球場を建設するなど、球界の発展のため誠心誠意の情熱を注いだ(原文のまま)

 東京都荒川区南千住6―45。東京球場跡地には荒川総合スポーツセンター、南千住野球場(グラウンド2面)、南千住警察が存在する。佇めば、そこには永田が奏でるラッパの音が聞えるはずである。(完)

2007年10月23日火曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅴ

 オリオンズ球団を引き受けた株式会社ロッテの社長、在日韓国人1世の重光武雄(本名・辛格浩)は球団オーナーとして表舞台に出ることを嫌い、岸信介に永田の後任オーナーを一任した。岸が指名したのが、岸の秘書官を務め片腕として働いた中村長芳だった。
 中村は10月18日に郷里の山口市で逝去した。
 2年間ロッテのオーナーを務めるわけだが、中村は岸の女婿(長女・洋子と結婚、その次男が前総理大臣の安倍晋三)である安倍晋太郎とは山口県立山口中学(県立山口高校)の同期生という因縁だった。

 1972年(昭和47)、永田は断腸の思いで東京球場まで手放すこと決意した。深交がある、政財界に顔が効くフィクサー児玉誉士夫に買い手探しを依頼、結果、児玉は国際興業社主の小佐野賢治(「ロッキード事件」がらみでと互いに被告となった)を選んだ。小佐野は戦後ホテル事業に手をつけ東京急行電鉄の創業者、五島慶太の知遇を得て、1947年国際興業を創設した。1950年には田中角栄が社長を務める長岡鉄道(後の越後交通)のバス部門拡充に協力したことから親交が始まり、「刎頚の友」といわれる関係になった。

 東京球場の大家は小佐野であり、店子は中村となった。小佐野の友は田中角栄で、中村の師は岸であり、友は安倍晋太郎だった。岸は首相を退いた後も政界に隠然たる勢力を示していた。岸の後釜は福田赳夫である。福田派の中核を成し、福田の後継と目されるのが安倍であった。
 当時政界では激しい権力抗争「角福戦争」が勃発しており、東京球場はその代理戦争の様相を呈していた。球場賃貸を巡り暗雲が立ち込めていた。

 永田は1971年球団の経営権をロッテに譲り、東京球場を国際興業に手放したのが1972年のことだが、東京球場譲渡の前に、パリーグでは極秘裏に西鉄ライオンズの身売り話が進められていた。
 1972年シーズン当初のオーナー会議で、西鉄本社の木本正敬社長は「西鉄は今季限りで球団経営から撤退したい。みなさまの協力を得て譲渡先を見つけてもらいたい」と切り出した。会議は騒然となったが、永田からロッテのオーナー職を受け継いだ中村が政財界の岸コネクションを利かせ西鉄の売却相手を探すことを全面的に託された。

 西鉄は1956年(昭和31)年から3年連続日本一に輝いている。監督に三原脩、主砲に中西太、豊田泰光、鉄腕・稲尾和久を擁した強豪だった。1963年にも南海に14ゲーム差離されながら稲尾らの奮闘で大逆転のリーグ制覇をしている。
 プロ野球を震撼させる「黒い霧事件」が起こったのは1969年だった。同年10月に西鉄の永易将之が暴力団関係者に敗退行為(八百長)を持ちかけられ実施したのが発端で、次々に敗退行為者が発覚していった。西鉄ではエースの池永正明、与田順欣、益田昭雄、中日の小川健太郎、東映・森安敏明らが永久出場停止処分(永久追放)となっている。
 池永の永久追放、主力打者の期限付きの出場停止、事件を因とした退団により、西鉄は戦力を大幅に失った。
 事件発覚の1969年は5位に終わり、1970年から3年連続で最下位と低迷した。そればかりか、この忌まわしい事件をきっかけに観客の足も遠のいた。平和台球場に閑古鳥が鳴いた。
 親会社から見れば球団は宣伝媒体で許容範囲の額なら赤字もやむを得ないとする本社社長もいることはいる。しかし、八百長球団という汚名は最悪といっていい。経理部門出身の木本は早く球団を手放したいと判断したようだ。(つづく)

2007年10月21日日曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅳ

 「パリーグを愛してやってください」。永田ラッパが高らかに響きわたった1962年6月2日。東京球場開設ゲームは大毎オリオンズ対南海ホークスだった。始球式は永田の盟友で総理大臣へと自ら画策した当時農相の河野一郎がアメリカ式に一塁側ダッグアウトから行っている。これも永田の演出である。河野の実弟が河野謙三、次男が河野洋平、河野太郎は孫にあたる。
 ゲームは南海の主砲・野村克也に記念すべき東京球場開設第1号を献上したものの、9-5で快勝した。永田はご満悦だった。

 デジタル大辞泉で「喇叭(らっぱ)を吹く」を引くと、「大きな事を言う。ほらを吹く。大言壮語する」と出てくる。永田には確かに大言壮語の癖はあったが、その話にはユーモアがあり言行一致を目指す真摯さがあった。映画記者や野球記者は「ラッパさん」と親しみを込めて影で呼んでいた。

 東京球場に本拠を構えた大毎オリオンズだったが、最初の1962年こそ73万人の観客を動員したが、その後はジリ貧となった。後楽園や神宮と比べ南千住というアクセスの悪さと成績不振が原因だった。
 東京球場設立の1962年から本拠地撤退の1972年までの11年間のオリオンズの観客動員数は、
 1962年 736,300人
 1963年 483,950人
 1964年 465,500人
 1965年 436,800人
 1966年 295,000人
 1967年 285,800人
 1968年 360,500人
 1969年 415,300人
 1970年 509,500人
 1971年 459,300人
 1972年 310,000人
となっている。
 
 映画産業の斜陽化と球団経営難が加速度的に重なっていった。

 1971年(昭和46)永田はついに大映が持つ球団経営権をロッテに譲渡する苦渋の決断を下した。映画は自分自身であり、野球は分身とまでいっていたが、背に腹は代えられず、まず球団を手放したのだった。東京球場の経営も思わしくなく累積赤字は15億円を超えていた。
 1969年永田の盟友である元総理大臣の岸信介が仲介の労をとりロッテを冠スポンサーに充てた。これは現在で言うネーミングライツだった。さらに経営悪化に苦しむ永田は、1971年球団経営の全権をロッテに譲った。同年の正月2日の出来事だった。
 数日後、東京球場の選手・関係者食堂に全選手、球団職員を集合させた永田は涙を流し、「小山、木樽。。。」と選手の名をあげながら、心からの叫びをあげた。
 「オレは去るが、優勝して日本一になってくれよ」。
 
 「永田ラッパ」の悲しい調べだった。(つづく)

2007年10月20日土曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅲ

 東京球場――永田雅一にとってそれはまさに「フィールド・オブ・ドリームス」(夢の球場)であった。

 東京球場は1961年(昭和36)7月着工した。当時、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、大毎オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としており、同一球場で違うカードを開催する変則ダブルヘッダー実施を余儀なくされるほど過密日程が常態化していた。後楽園球場では人気のある読売が観客動員を見込めるため夜のゲームに開催し、大毎などが昼から薄暮にかけてのゲームに回っていた。真打ジャイアンツの前座扱いであり、「自前の球場をもちたい」との永田の思いがあった。

 その時すでに本業の映画産業にも翳りが見えていた。

 東京都荒川区南千住には、戦前には千住製絨所があり、戦後には民間払い下げになり大和毛織の生地工場があった。1950年代に入り業績悪化と工業用水不足、労使間争議などで1960年に閉鎖されることになった。都内数箇所を球場用地として自ら視察した永田は、工場閉鎖という絶好のタイミングに私財を投げうって球場建設をこの地に決めている。総工費は28億円といわれた。

 球場候補地のなかには、現在プリンスホテルが建っている東京・芝の土地を使ってどうか、と西武グループの総帥・堤康次郎から進められたが、永田は断っている。西武の経営、資本参加・介入などを嫌い、「自前」に拘ったようだ。南千住の球場は観客動員数に伸び悩み手放すことになるわけだが、交通便のよい芝に東京球場が建っていたら、わずか11年で常設球場としての役目を終えることはなかったかもしれない。今となっては詮無い想像であろう。
 竣工は1962年5月31日、1年足らずで築き上げた。6月2日にはパリーグ全6球団が集結し、お披露目が行われた。3万5000人とスタンドを埋め尽くした満員の観客に向かい、永田は例の低いドスの効いた声で絶叫した。 高らかに「永田ラッパ」が東京球場に吹き鳴らされた。
 「みなさん、どうぞパリーグを愛してやってください」
 米大リーグの球場のような先端設備を有しながら庶民が気軽に「下駄履き」で通える球場がほしい、という永田の願いが叶った。
 
 米サンフランシスコのキャンドルスティック・パークを模し、6基の照明塔がグランドの選手を照らし出した。照明塔は2本のポール型の鉄塔で照明を支えたモダンなスタイルだった。外野ばかりか内野のダイヤモンド部分も日本の常設球場で初めて天然芝が植えられていた(後に手入れの煩雑さや経費面からクレー舗装になった)。ゆったりした座席。スタンド下に選手用設備があった。屋内ブルペンは幅6メートルで2人が投げられた。ダッグアウト裏にはトレーナー室、医療室、その奥には広いロッカールームがあった。これまでの隣の選手と身体が触れ合うように着替えていた姿が一変し、ゆったりと自分の空間を得られた選手には大好評であった。
 左翼スタンドから三遊間後方の地下にはボーリング場が併設され、シーズンオフには内外野の椅子席の上にはスケートリンクを設置できるようになっていた。
 両翼は90メートル、中堅120メートル。左中間と右中間は直線的でふくらみがなった。「ホームラン量産球場」といわれる所以で、当時最先端設備の球場の数少ない欠点であった。しかし、数々の先駆的な設計手法は今後の球場作りに大きな影響を与えたのだった。

 東京球場が開設された1962年、大毎オリオンズの観客動員数は736,300人と、前年の610,250人を2割強上回った。(つづく)

2007年10月18日木曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅱ

 1970年改称2年目のロッテ・オリオンズは、どんなチームだったろうか。
 改称の1969年はリーグ3位だったが、1970年は10年ぶりの優勝へ戦力は整っていた。強力打線をバックに大量点を奪い投手陣が守り切る試合運びで勝ち進んだ。シーズン試合数130試合を闘い80勝47敗3分、勝率.630で2位の南海ホークスを10.5ゲームの大差をつけてのパ・リーグ独走優勝だった。
 チーム打率は.263、チーム本塁打数166本でいずれもリーグ1位で、チーム防御率は3.23でリーグ2位の成績だった。
 個人打撃成績を見るとアルトマン3位(.319、30本塁打)、ロペス4位(.313、21本塁打)、有藤6位(.306、25本塁打)に10傑に3人が並び、江藤慎一、榎本喜八、山崎裕之、池辺巌の強打者を揃えていて、日本プロ野球史上初となるチーム5人が20本塁打を記録、打線のどこからでも得点できた。投手陣では最優秀選手賞を獲得した木樽正明が21勝10敗で防御率2.53、最多勝投手の成田文男が25勝8敗で防御率3.21、小山正明が16勝11敗で防御率2.30と、3本柱が奮闘した。
 監督は濃人渉、打撃コーチ矢頭高雄、投手コーチ近藤貞雄、守備コーチ土屋弘光、二軍監督に大沢啓二がいた。
 
 日本シリーズでは読売ジャイアンツに1勝4敗と敗れている。日本一9連覇へ驀進中の川上哲治率いる巨人は長嶋茂雄、王貞治が全盛期を誇っており、V6を果たしている。

 ちなみに「10年ぶりのリーグ優勝」だが、先の優勝は西本幸雄が指揮をとっていた大毎オリオンズで1960年(昭和35)のことだった。大毎は山内和弘、田宮謙次郎、葛城隆雄、榎本喜八のミサイル打線が売り物で、新監督に迎えた三原脩の采配・起用の妙で前年の最下位から優勝に漕ぎつけた大洋ホエールズとの日本シリーズとなった。大方の下馬評では大毎の優位は動かなかった。しかし蓋(ふた)を開けると予想外の展開で、大毎はまさかの4連敗を喫した。秋山登・土井淳のバッテリーや近藤昭仁の大洋勢は三原魔術に踊り大活躍した。日本シリーズ後、敗戦の悔しさからか永田が西本の采配に口を出し悶着が起き、その結果、永田は優勝監督の西本の首を切ったのである。

×  ×  ×

 本日2007年10月18日、この「ラッパの聞える東京球場」に登場を予定していた人物の訃報が飛び込んできた。ニュースをお知らせする。
 元ロッテ・オリオンズ、太平洋クラブ・ライオンズのオーナーで元岸信介首相秘書官の中村長芳(なかむら・ながよし)さんが18日、急性硬膜下血腫のため死去した。享年83歳だった。岸信介元首相の秘書官を務めた後、1971年にプロ野球ロッテのオーナーに就任。72年に太平洋クラブ(76年10月にクラウンライターに変更)のオーナーに就き、78年秋に西武へ売却するまで務めた。

×  ×  × 

  球音は中村長芳さんが1972年(昭和47)オフシーズン、ロッテから太平洋クラブへ移籍するまで、東京・赤坂の中村さんのマンションに朝駆け夜討ちの日々を2ヶ月続けたことがある。最終的に西鉄ライオンズの買収そして太平洋クラブとの業務提携、太平洋クラブ・ライオンズのオーナー就任というニュースは抜けなかったが、貴重な経験を積ませていただいた。中村さんと奥さんは新米記者の球音に親切に接してくれた。冥福をお祈りする。
 
 次回は永田の愛した東京球場の話題を戻す。(つづく)

2007年10月17日水曜日

ラッパが聞こえる東京球場

 それは異様な光景だった。日本プロ野球史上初めての出来事といっていい。
 優勝が決まった。マウンドに歓喜の輪が広がった。監督、選手がダッグアウトから堰を切ったよう飛び出した。と、同時に観客、ファンもグラウンドになだれ込んだ。胴上げが始まった。
 夜空に舞ったのはなんと永田雅一だった。胴上げの順番はまず監督、それから主力選手というのが通り相場だが、いの一番が球団オーナーだった。選手をさしおいてファンが入り乱れて小柄な男を宙に放り上げている。東京音頭の大合唱が轟(とどろ)いた。
 1970年(昭和45)10月7日。ロッテ・オリオンズがパシフィック・リーグ優勝を飾ったのは、東京下町の南千住(荒川区)にある東京球場(正式名には東京スタジアム)である。

 振り返れば、野球人・永田雅一の絶頂の時ではなかったか。舞台は彼が私財を投じて作った「夢の球場」だった。

 プロ野球常設球場としてわずか11年しか使用しなかった東京球場の数奇な運命を、草野球音は追う。

 永田が社長を務める本業の映画会社、大映は経営難に喘いでいた。球団、球場経営も「危険水域」に達していた。1969年、「昭和の妖怪」といわれ総理大臣の座を引いてもなお政財界に影響力のあった盟友である岸信介の仲介で菓子メーカーのロッテを冠スポンサーに資金援助を受けることになった。東京・オリオンズがロッテ・オリオンズに改称されている。チーム名の「東京」には愛着がある。東映、読売、国鉄もフランチャイズは東京だが、球団名に「東京」を名乗るのはオリオンズだけ、それが永田には自慢だった。が、背に腹は代えられない。球団名はどうあれ、とにかく優勝の思いがあった。(つづく)

2007年10月14日日曜日

大映はカツライスの味

 悲しみの大女優がテレビ画面に映し出された。誰にでも老いは迫る。例外は許されないはずだが、往年を彷彿させる美しさがいまだ名残を留めていた。
 世界的な建築家として知られる黒川紀章(くろかわ・きしょう)さんが心不全のため死去した。享年73歳。2007年10月12日のことだ。妻は女優の若尾文子さんである。
 
 本題は訃報から非情にも大映に飛ぶ。
 大映株式会社は1942年(昭和17)から2002年(平成14)まで存在した映画会社で、現在は角川映画が引き継いでいる。

 草野球音は1960年代を中心にした大映に郷愁のゆくえを追う。

 1947年に永田雅一が大映社長に就任すると、人気作家の川口松太郎(1899年―1985年)を専務に据えた。世の女性の紅涙を絞ったのは三益愛子(1910年―1982年)の「母物シリーズ」である。戦後10年間にわたり人気を博した。1951年、川口松太郎と三益愛子は正式に結婚している。
 1951年「羅生門」(黒澤明監督)でベネチア国際映画祭グランプリ、1953年「雨月物語」(溝口健二監督)で同銀獅子賞、1954年「地獄門」(衣笠貞之助監督)でカンヌ国際映画賞グランプリに輝き、大映作品の芸術性を高めている。
 若尾文子は1952年に映画デビューし「十代の性典」を経て、京マチ子、山本富士子と並ぶトップ女優となっている。男優はなんといっても大御所の「永遠の二枚目」長谷川一夫を頂点に、市川雷蔵(1931年―1969年)がスターとなっていた。60年代に入り勝新太郎(1931年―1997年)、そして田宮二郎が台頭する。
 さらに男優に船越英二、根上淳、菅原謙二、川口浩、川崎敬三、高松英郎、成田三樹夫、女優に野添ひとみ、叶順子、江波杏子、中村玉緒、藤村志保、安田道代(大楠道代)と綺羅星の如く輝いていた。
 
 さてカツライスの意味を分かりますか?
 カツライスとは勝+雷。大映の誇る勝新太郎と市川雷蔵のことで、最強の二本立て上映を指す。映画デビューはふたりとも1954年の「花の白虎隊」。二本立ても死語になっている。

 雷蔵の魅力はクールな二枚目、凛々しい品格の美しさである。37歳惜しまれながらの夭折だが、その存在は映画史に残る。着物の裾さばきが見事で、どんな激しい立ち回りを演じても裾が乱れなかったという。「眠狂四郎」「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」の人気シリーズがあり、三島由紀夫の「金閣寺」を映画化した「炎上」、「剣」、「華岡青洲の妻」など名作を残す。
 勝新は雷蔵に先を越され売れなったが、1960年白塗りの二枚目を捨てた「不知火検校」が当たり開花した。代名詞となった「座頭市」はじめ「悪名」「兵隊やくざ」の人気シリーズがある。若山富三郎は兄、妻は中村玉緒。
 カツライスは昭和30年代日本映画の黄金期、お盆と正月の大映の定番メニューだった。

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 東京・銀座の老舗洋食屋「煉瓦亭」のカツライス(ポークカツレツ)の値段は、昭和30年に120円だった。40年は250円、雷蔵が亡くなった44年は280円、ふたりとも鬼籍に入っている現在(平成19年)は1,250円となっている。
 昭和も遠くなりにけり。

2007年10月13日土曜日

長谷川伸の股旅映画

 浅草の喫茶店で落語家の快楽亭ブラックを見かけた。10月9日のことだ。浅草をぶらぶらしていた草野球音は、霧雨が小雨模様になってきたので「緊急避難」に飛び込んだところ、師匠の尊顔を拝することになった。彼の相手が話しながらメモをとっていたから、取材だったのだろうか。
 快楽亭ブラックは日本一の日本映画通と自他とも認める御仁で、中村錦之助*主演の「関の弥太っぺ」(長谷川伸原作・1963年東映・山下耕作監督)を股旅映画の傑作と激賞していたことを何かで読んだ覚えがある。 中村錦之助は後の萬屋錦之介。
 
 縞の合羽に三度笠、軒下三寸借り受けましてと仁義を切り、一宿一飯の恩義で人さまを斬ることも辞さぬ、足の向くまま気のむくままの旅烏―球音が抱く「股旅」のイメージである。
 デジタル大辞泉を引くと、以下の字義が出てくる。
股旅=博徒・芸人などが諸国を股にかけて旅をすること。
股旅物=小説・演劇・映画などで、各地を流れ歩く博徒などを主人公にして義理人情の世界を描いたもの。昭和初頭から使われるようになった語。
 その股旅物大家が長谷川伸である。

 長谷川伸の略歴:1884年(明治17)―1963年(昭和38)。横浜市日ノ出町生まれ。横浜ドックの下働きから新聞記者を経て、小説家・劇作家となる。彼の股旅物は映画化されたものが多い。「関の弥太っぺ」のほかでも「瞼の母」「沓掛時次郎」「一本刀土俵入」「雪の渡り鳥」などで、その多くは大劇場ばかりでなく大衆演劇の舞台にかけられているので、日本列島辻浦々まで広く知れわたっている。弟子に村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎がいる。
 
 日本人の琴線の触れる世界を描き、後世に残した長谷川伸の大衆文化における貢献度は著しく大きいと思う。球音備忘録にはかって観た3本の股旅映画を特に記憶に留めたい。あらすじは観てのお楽しみにしてほしいので、ここでは書かない。

 まず「関の弥太っぺ」である。1963年(昭和38)の東映作品。監督は山下耕作で第1回監督作品。関の弥太っぺ役の中村錦之助の油の乗り切った演技に後光が差している。お小夜に語った言葉、そして10年後に語る言葉がキーワードとなる。共演の木村功、大坂志郎、月形龍之介らの脇役も銀をいぶした渋さがあったと記憶している。お小夜役は十朱幸代。
 「瞼の母」―1962年東映。 監督脚本は加藤泰、番場の忠太郎役に中村錦之助、共演は母役の木暮実千代、松方弘樹、大川恵子。夜鷹の老女役の沢村貞子の演技が印象に残る。
 「雪の渡り鳥」―1957年大映作品。「合羽からげて 三度笠」の三波春夫の主題歌。鯉名の銀平は長谷川一夫(1908年―1984年)、共演は山本富士子。加藤敏監督。当時の映画キャッチコピーは「日本一の美男・美女の共演」だった。

中村錦之助(なかむら・きんのすけ):1932年(昭和7)―1997年(平成9)。1972年から小川家の屋号である「萬屋錦之介」を名乗る。歌舞伎から「ひよどり草紙」で美空ひばりと共演、映画デビュー。東映時代劇の看板スターとなる。笛吹童子、宮本武蔵、一心太助に出演。テレビ出演は子連れ狼、破れ傘刀舟など。

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2007年10月10日水曜日

原辰徳:巨人の夜明け後記

 原辰徳のドラフト会議があった1980年(昭和55)は、巨人にとってどんな年だったろうか。
 ペナントレース3位に甘んじ、3年間リーグ優勝から遠ざかった不振の責任を負って長嶋茂雄監督が解任された。世界の王貞治は2割3分6厘、30本塁打、84打点の成績で「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退した。看板のONの異変は、巨人の親会社読売新聞に大きな痛手であった。巨人は最大の新聞の販売促進材料である。
 その2年前のドラフトでは、「江川騒動」があった。ドラフト前日の「空白の一日」をついての巨人入団、ドラフト拒否、すったもんだの末は阪神との間で小林繁との交換トレードとなった。一連の「事件」でイメージを悪化させ、読者の反感を買い読売新聞は部数を減らしている。
 長嶋の後任監督に藤田元司を据え、王助監督と牧野茂ヘッドコーチのトロイカ体制で1981年のシーズンを臨むことになったが、部数低迷の歯止め・巨人人気翳りの阻止・明るい話題提供などの目論見もあり、当時アマ野球界で随一の人気者、辰徳をドラフト指名することはグループあげてとの悲願であった。それが叶った。
 ONの後継者という声も上がった。長嶋が巨人入団した1958年(昭和33)に辰徳は生まれている因縁と守備位置も同じ三塁手であり、マスコミやファンの間では「長嶋二世」との期待もあった。
 が、結果は残酷である。

選手通産成績(シーズン)
・長嶋茂雄 出場試合2186 打率.305 本塁打444 打点1522
・王 貞治  出場試合2831 打率.301 本塁打868 打点2170
・原 辰徳  出場試合1697 打率.279 本塁打382 打点1093
監督成績(シーズン)
・長嶋茂雄 1034勝889敗59分 勝率.538 日本一2回
・王 貞治 1251勝1042敗71分 勝率.546 日本一2回
・原 辰徳 302勝260敗8分 勝率.530 日本一1回

 辰徳の現役時代は巨人4番打者として「ONの重圧」との闘いだった。そして監督なってからもそれは続いているように、思える。選手成績では完敗に終わった辰徳だが、監督での勝負は逆転勝利の可能性を残している。大山詣の縁(よすが)で草野球音は陰ながらに声援を送っている。

2007年10月8日月曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅣ

 原辰徳の「長い1日」を重ねて追う。
 現在巨人の監督を務める辰徳の手本はだれだろうか。采配、起用法、作戦、選手管理・育成、マスコミ対応など監督の仕事の範疇は広く、複雑で、プロ野球監督は人生をかける仕事でもある。辰徳が人間的にも尊敬できなければ手本としない。それは間違いなく原貢と藤田元司の二人である。
 二人の師匠、貢と藤田の接点を1980年ドラフト指名から24年前の1956年(昭和31)に見出すことができる。
 昭和31年社会人野球京都大会。東洋高圧大牟田に所属していた貢は打撃好調で首位打者に輝いている。貢は、当時ノンプロ実力ナンバーワン投手である日本石油の藤田と対戦し、なんとセンター越えの長打を放ったのだ。藤田といえば、六大学野球の慶応大学で31勝をあげながら優勝できず悲運のエースといわれ、日本石油に入社してからもこの年の都市対抗野球では3完封など獅子奮迅の活躍で日本一に輝いている。翌年巨人入団。17勝を稼ぎ新人王を獲得している超ビッグネームである。一方、貢といえば東洋高圧大牟田の主力打者ではあったが、中央球界では無名の存在である。まさに同じ野球選手とはいえ「月とすっぽん」ほどに差があった。
 辰徳が巨人入団した1981年2月、宮崎キャンプを訪れた貢は藤田監督と会食をともにしたが、藤田も京都大会のことをよく覚えていて昔を懐かしんでいる。さらに1984年、藤田のひとり娘の結花と結婚したのは、ドラフト当日に貢、辰徳親子と監督室に同席した助監督の岩井美樹(国際武道大学野球部監督)だった。貢―辰徳―藤田の因縁は深い。

 藤田と対戦した翌年の1957年、23歳の貢は勝代と結婚した。辰徳は1958年(昭和33)7月22日に産声を上げた。5歳下に妹の詠美がいる。

 2007年11月26日午前11時30分。相模原市東林間の原家。居間で親しい友人夫妻とドラフト会議のテレビ中継を凝視していた母・勝代は、巨人指名に小躍りして喜んだ。早く辰徳に会いたいと思った。家の周囲はテレビ局、新聞社の取材が取り巻いている。外出すればマスコミとのカーチェイスが待っている。それは危険であり喧騒は避けたい。勝代は脱出計画を練った。
 まず懇意にしている東海大相模高に程近い寿司店「六ちゃん」に電話した。原家は東林間駅から徒歩5分の住宅街にある。通りに面しているが、裏は隣家と接している。通りには報道陣はいるが、裏は無警戒である。スカーフを被り、顔を隠した勝代は2メートルほどの垣根を乗り越え、隣家をすり抜け裏通りに出た。そこには「六ちゃん」差し回しの車が待っていた。平塚市土屋の合宿所を目指した。
 同じころ、辰徳は勝代に会い喜びを分かち合いたいと願った。記者会見が終わると、貢とふたりで昼食もとらず東林間の自宅に急いだ。ふたりは勝代の脱出を知らない。
 親子のすれ違いが起こった。
 結局、親子対面は午後4時近くになってしまった。
 「ただいまッ」
 息子を待っていた勝代が玄関に飛び出し、抱きついた。
 妹の詠美も「お兄ちゃん」とふたりに駆け寄った。
 家族団欒(だんらん)の間もなく、巨人系スポーツ新聞社の原番記者が辰徳を隠れるように家から連れ出し、その新聞社内で現役を引退し助監督になった王貞治との対談を企画した。その後はテレビ取材と、家族4人が水入らずの状態になったのは深夜である。

 11月27日午前6時。初冬の凛とした冷気が相模原市東林間の原家を包んでいた。郵便受けにどっさり新聞が配達された。「東海大・原は巨人が指名」の大見出しが躍っていた。原家では神奈川新聞と日刊スポーツ新聞の2紙を購読していたが、ドラフトの翌朝には手回しよく読売新聞と報知新聞が届けられていた。
 大山詣から始まったドラフトの長い1日――「24-TWENTYFOUR-」が終わろうとしていた。(完)

2007年10月7日日曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅢ

 原辰徳の「長い1日」をさらに追う。
 2007年11月26日プロ野球ドラフト会議は、辰徳、石毛宏典(プリンスホテル)と竹本由紀夫(新日鉄室蘭―ヤクルト)が御三家といわれ、ドラフト史上でもまれな豊作年だった。
 午前11時から始まった会議の第1回指名は、
・原辰徳(東海大)に広島、巨人、大洋、日本ハムの4球団
・石毛宏典(プリンスホテル)に西武、阪急の2球団
・竹本由紀夫(新日鉄室蘭)に近鉄、ヤクルトの2球団
・愛甲猛(横浜高)にロッテ
・中田良弘(日産自動車)に阪神
・中尾孝義(プリンスホテル)に中日
・山内和宏(リッカー)に南海が名乗りを上げた。
 抽選外れの1位で広島に川口和久(ディプロ)、近鉄に石本貴昭(滝川高)、日本ハムに高山郁夫(秋田商―拒否でプリンスホテル)、大洋に広瀬新太郎(峰山高)、阪急に川村一明(松商学園―拒否でプリンスホテル)となっている。
 その他でも会議で指名を受けたのは、大石大二郎(亜大―近鉄)、高木豊(中大―大洋)、駒田徳広(桜井商―巨人)、杉本正(大昭和製紙―西武)、弓岡敬二郎(新日鉄広畑―阪急)、井上裕二(都城―南海)、渡真利克則(興南―阪神)と馴染みの顔が並んでいる。

 話題が逸れたので、本題に戻す。
 第1回の指名で4球団が辰徳指名で重複したため、抽選となった。平塚市土屋の東海大合宿所の監督室でテレビを見守る辰徳の心臓は高鳴った。喉が渇き、手に汗をかいた。
 日本ハム・三原脩代表、大洋・土井淳監督、巨人・藤田元司監督、広島・松田耕平オーナーの4人が会場の前列に進み出た。4人の前に抽選箱が置いてある。
 まず日本ハムの三原代表が抽選箱に手を入れ、1通の封筒を引いた。続いて大洋の土井監督。いよいよ希望の巨人の藤田監督。3番目の登場である。最後に広島の松田オーナーがくじを引いた。事務局員の合図で一斉に開封する。
 辰徳はテレビを見ていられなくなった。思わず目をつぶった。心拍数が最高潮に上り詰めた。
 頭の中が真っ白になった。時間が長く感じられた。
 「やったー」という歓声・絶叫が監督室、マネジャー室、報道陣の控える食堂、そして合宿所の外から押し寄せて、轟(とどろ)いた。
 目を開けた辰徳はテレビを見た。そこには1枚の紙を右手で高々とあげた藤田監督の笑顔が飛び込んできた。眼鏡の奥から優しいまなざしを送る視線は、辰徳にそのまま投げかけられたように映った。心の奥底からこみ上げる感動に涙した辰徳が、隣の貢を見ると目が潤んでいる。こんな父をみるのは初めてのことだった。三池工が夏の甲子園で日本一の輝き見せたのは人目もはばからない感涙だが、ここで見たのは人に気づかれないように流した涙だった。 父としての安堵の涙といっていいだろう。
 「おめでとう。よかったな」と貢は短い言葉で祝福した。
 2人は立ち上がった。指名後は速やかに記者会見をすることをマスコミと約束してある。2階の監督室で2人はそっと涙をぬぐった。2階から1階の会見場の食堂に向かう階段を降りると、「巨人軍原辰徳」にカメラの放列から眩(まばゆ)いばかりのフラッシュが一斉に瞬(またた)いた。(つづく)

2007年10月6日土曜日

原辰徳:巨人の夜明けⅡ

 原辰徳の「長い1日」を追う。
 初冬の空は快晴だった。丹沢の峰々を従えて裾野まで雪を被った富士山がくっきり望めた。平塚市土屋の東海大学野球部合宿所。2007年11月26日午前9時45分。辰徳の運転するBMWが到着した。大学生にBMWとは贅沢な話だが、車は父・貢の所有で特別な日に辰徳にも使用が許されていた。ドラフトは親子にとって特別な日であった。
 合宿所は朝から報道陣でごった返していた。新聞社、テレビ局、雑誌社の社旗をつけた黒塗りの車は50台余。記者、カメラマンは総勢100人を悠に超えていた。20人ほどの熱心なファンも集まっていた。人里離れた丘陵を切り開きグラウンド、室内練習場、合宿所を隣接させ、野球漬けの環境を作った――この付近にこれほど人が殺到したことはない。
 1階の食堂が取材陣控えであり、指名終了後のインタビュー席とされた。辰徳は2階の監督室でテレビ見て瞬間を待つことになった。マスコミから隔離し、監督室に陣取ったのは辰徳、東海大野球部監督である父の原貢、助監督の岩井美樹、同僚でドラフト候補の市川和正(大洋が指名)と津末英明(日本ハム指名)の5人だった。
 貢はさらし者になることを避けた。ドラフト会議では指名球団の結果で選手の悲喜こもごもがテレビに映し出される。意中の球団に当たればいいが、予想外の指名に涙を見せる選手すらいる。マスコミ主導の映像、写真を嫌ったための監督室隔離となった。
 午前11時。会議はいよいよ始まった。第1回の指名で広島、巨人、大洋、日本ハムの4球団が辰徳の名を挙げた。貢の予想通りである。
広島・松田耕平オーナー
巨人・藤田元司監督
大洋・土井淳監督
日本ハム・三原脩代表
 
 時間を17時間前に巻き戻そう。
 相模原市東林間、小田急線東林間駅から徒歩5分の場所に原貢の自宅がある。ドラフト会議前夜11月25日午後6時。その居間から、貢が立て続けに2件の電話をかけた。相手は広島・苑田スカウトと日本ハム・三沢スカウトである。指名しても入団しないので、指名を辞退してもらいたい、という内容である。すでに貢の調査によれば指名は4球団に絞られていた。
 辰徳の希望は憧れの巨人と地元の横浜を本拠にする大洋であった。貢の希望は巨人、大洋、そして大穴の西武であった。
 貢は西武オーナー堤義明とはすでに面会をしていた。辰徳の東海大相模高校時代からの同僚、村中秀人を西武の関連の社会人野球チームのプリンスホテルに入社させる交渉を行っている。その席で堤から辰徳の西武入団を切り出されている。しかし西武はプリンスホテルの主力で辰徳と並ぶドラフト目玉、石毛宏典を指名する準備もしていた。ただしこの時期、石毛は「アマ野球の指導者になりたい」とプロ拒否発言を行っている。
 西武の秘中の秘というべき作戦は辰徳指名、石毛のドラフト外入団という「飛車角両盗り」であった。ドラフト前夜まで水面下で駆け引きは行われたが、結局は石毛指名で落ち着いている。
 というわけで、圏外の広島と日本ハムの指名降ろしの電話となったのである。(つづく)

2007年10月5日金曜日

原辰徳:巨人の夜明け

 霊山に朝靄(あさもや)がまだ漂っていた。西に雪化粧した富士山が薄ぼんやり望めた。山の冷気が緊張をさらに高めた。社務所に日本酒を奉納した学生服の若者は、心願成就を込めて100円玉を賽銭箱に投げ入れた。
 1980年(昭和55)11月26日午前8時30分。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社。若者は22歳、東海大学4年生の原辰徳。運命のプロ野球ドラフト会議を待つ朝の光景である。
 希望球団は巨人と横浜大洋を挙げていたが、辰徳の心は子供の頃から憧れていた巨人への思いが強かった。願いは巨人からの指名だった。まさにジャイアンツ愛である。
×  ×  ×
 2007年10月2日、優勝マジックを「1」にしていた巨人が東京ドームでヤクルトに5―4で逆転サヨナラ勝ちし、5年ぶり31度目のセリーグ優勝を決めた。就任2年目の原辰徳監督は、前任期中だった2002年に続いての胴上げ監督となった。巨人が4年間、リーグ制覇から離れていたのは球団史上最も長かった。
 ――あれから27年の歳月が流れた。原監督の胴上げをTVニュースで見ながら、草野球音はまざまざと「大山詣から始まった長い1日」を思い出した。
×  ×  ×
 大山は、別名雨降山(あふりやま)といわれ、雨をもたらし農耕を司る霊山として、古くから知られていた。雨降から「阿夫利」に転じたともいう。真言宗大山寺は、752(天平勝宝4)年に良弁僧正によって開創されたといわれている。江戸時代になって庶民の生活が豊かになると、信仰と物見遊山を兼ねた旅として大山詣が盛んになった。
 大山神社は原家の「初詣御用達神社」でもある。それは辰徳が小学校3年生の頃から始まった。
1965年(昭和40)30歳の父・貢が三池工業高校の野球部監督として夏の甲子園大会で全国制覇を果たしている。昭和30年代後半、高度成長期にあった日本の産業界は主要エネルギーを石炭から石油に大きく舵取りを変えた。隆盛だった炭鉱の町・大牟田に翳りが見始めた。人員整理に端を発した三井三池争議が起こった。そんな寂れる暗い街に希望の灯火を点したのが、三池工の日本一だった。「ヤマの球児」が貢の采配に躍り、大活躍を見せ初出場初優勝の快挙をやってのけた。
 7歳の辰徳は母・勝代とともに炭坑節が響く甲子園のアルプススタンドで応援した。歓喜が弾けた優勝の瞬間、その後の大牟田での凱旋パレードの熱狂を鮮明に記憶している。
 貢の手腕に惚れ込んだ東海大学の創始者である松前重義に請われ、東海大付属相模高校の野球部に就任したのは、辰徳が8歳の1966年だった。福岡県大牟田市から神奈川県厚木市に引越し、その後相模原市で育っている。以来、願いごとのたびに訪れる大山であった。
 この朝は人生の岐路に立つ若者が、心願を祈ったのだった。辰徳の思いを叶えてあげたい――神前に球音は心で吠えた。(つづく)

2007年10月2日火曜日

端正な文体‥藤沢周平

 月が替わったものの、あれからわずか10日しか経っていない。草野球音の身に同じ災いが出来(しゅったい)した。
 澄んだ夕焼け空に秋茜(あきあかね)が飛んでいた。着流しの裾を端折(はしょ)り、深編み笠の浪人風の男が、江戸に通じる裏街道を俯(うつむ)きながら急いでいた。曰くありげな男は球音である。関八州見廻り役がそこに出くわし、誰何(すいか)した。
 「くさのたまね、と申す」
 「ご姓名はどのような字を書くのか」
 「なに、草野球音。くさやきゅうネ。愚弄しおって。偽りの名だな。取り調べてくれよう」
 「けして怪しいものではない」という否や球音は疾走した。裏街道から獣道へと走った。見廻り役も追ったが、見失った。
 その後、球音の消息は杳(よう)として知れなかった。

×  ×  ×
 と、またもやどうでもいい前フリをしたが、陰暦10月を神無月と呼んだ。「無(な)」は「の」の意味の格助詞で、「神を祭る月」、「神の月」が元来の語源だそうだ。
 それが後世になり「無」(なし)に解釈して俗説が生まれた――出雲大社(島根県)に全国から八百万(やおよろず)の神々が集まり、神さまがいなくなる月ということから「神無月」といい、逆に神さまが大集合する出雲の国では「神有月」と呼ぶという。
 月替わり、話題は池波正太郎から藤沢周平*に移る。池波作品は「鬼平」シリーズ(2007年9月29日)にとどめ、折に触れ書かせていただきたい。この蜘蛛巣丸太の主、草野球音は身勝手である。風の向くまま、気の向くまま、筆の向くまま当ても果てしもない旅を続ける。
 つい最近、「暁のひかり」(文集文庫)を読んだ。藤沢作品に外れはない。その魅力はなんだろうか。球音が一番に挙げるのは、文章である。抑え込んだ、淡々として、端正な文体だと思う。さらに登場人物への人間愛が感じられ、それは藤沢さんの暖かさではないか。周到な構成で読みあきない。

 球音の読んだ藤沢作品は、
「用心棒日月抄」シリーズ(新潮文庫=全4作)
  用心棒日月抄・孤剣・刺客・凶刃
「獄医立花登手控え」シリーズ(講談社文庫=全4作)
  春秋の檻・風雪の檻・愛憎の檻・人間の檻
「隠し剣」シリーズ(文春文庫=全2作)
  隠し剣孤影抄・隠し剣秋風抄
「蝉しぐれ」(文春文庫)
「風の果て」(文春文庫・上下巻)
「よろずや平四郎活人剣(文春文庫・上下巻)
「三屋清左衛門残日録」(文春文庫)
「麦屋町昼下がり」(文春文庫)
「秘太刀馬の骨」(文春文庫)
「暁のひかり」(文春文庫)
「たそがれ清兵衛」(新潮文庫)である。

*藤沢周平(ふじさわ・しゅうへい):1927年(昭和2)―1997年(平成9)。山形師範学校卒業後、教師となるが、肺結核に罹患し入院生活を余儀なくされる。その後、新聞社勤務。72年に「暗殺の年輪」で直木賞受賞。人気時代小説家。