2007年11月11日日曜日

ジャイアンツ・馬場正平Ⅱ

 「替わりまして巨人軍ピッチャー馬場」。
場内アナウンスがアルプススタンドに響いた。一般人に比べれば大きい野球選手にあってもひと際デッカイ、雲を突くような大男がマウンドに立った。打席に歩いたのは“牛若丸”と異名をとる球界一の小兵だった。どよめきが球場を包み、その後に笑いまじりの歓声と拍手が沸き起こった。
 1957年(昭和32)8月25日、伝統の阪神―巨人戦。舞台は甲子園球場である。大量リード許した8回裏、巨人が投手を選手登録200cmの馬場正平に代えた。迎える打者は165cmの阪神・吉田義男だった。その差35cmだが、馬場の過少申告を考慮すれば、実際の差40cmはあったろうか。
 これが馬場の入団3年目に巡ってきたプロ野球初登板である。敗戦処理の起用だが、巨人監督の水原円裕の粋な演出でもあった。結果は三塁ゴロに仕留め、馬場に軍配が上がった。無難にその後の2人を「二塁フライ」「遊撃ライナー」に打ち取り、1イニングを無失点に抑えたのだった。

 プロ野球野球選手・馬場のハイライトは最初で最後となった先発であった。
 同年のレギュラーシーズンも押し迫った10月23日の中日戦。舞台は本拠地の後楽園球場。巨人先発はプロ初先発の馬場。中日は200勝をかけてマウンドに登る“フォークの神様”杉下茂である。大投手である杉下はこれまで通算199勝をあげ、大台に王手をかけていた。負ければ来年回しとなる可能性もあり、ぜひとも巨人戦で記録達成を意気込んでいた。
 結果は1―0で中日が勝利し、杉下は完封で、しかも区切りの200勝を巨人戦で飾った。敗戦投手は馬場だった。馬場は5回を投げ、被安打5、1奪三振、四死球0、1失点の好投を見せている。
 ちなみに唯一の打席は杉下の前に3球三振だった。2度目の打席は5回裏に回ってきたが、代打が起用された。 来年こそ一軍の手掛かりを掴んだ試合だった。
 杉下の200勝に「花を添えた」馬場の力投であった。両者ともに忘れえぬ試合となったのではないか。

 この試合を街頭テレビで見た記憶がある。馬場の投球フォームは、ゆっくりとしたワインドアップし、上げた左足を大またに開き上手から投げ下ろす。最高球速は140㌔台か。球種は直球とカーブの2種類のみ。小高いマウンド上(野球ルールでは25.4cmと規定)で2m超の上手投げから投じられるボールは、打者から見れば2階から投げたように感じ角度があり、打ちづらかったと推測する。細かい制球力はないが、四球で自滅することはないタイプとみた。

 1957年の3試合登板、合計7イニング、被安打5、3奪三振、四死球0、失点1、防御率1.29で、打撃は1打席1三振 打率.000――この記録こそ、馬場正平が日本プロ野球に在籍したことを示す唯一の証(あかし)である。

 馬場の初先発からわずか3日後に同年の日本選手権シリーズは開催された。1956年に続き読売ジャイアンツ―西鉄ライオンズの対戦であった。水原円裕と三原脩の因縁の名将対決で「巌流島の決闘」といわれ、注目を浴びた。結果は前年に続き西鉄が1引き分けを挟み4連勝して日本一に輝いている。
  1957年日本選手権シリーズ
   巨人―西鉄  勝利投手 敗戦投手  本塁打
第1戦 2-3      稲尾和久 大友 工  豊田泰光
第2戦 1―2    河村英文 堀内 庄  宮本敏雄
第3戦 4-5    稲尾和久 義原武敏  大下弘、関口清治、与那嶺要、宮本敏雄
第4戦 0-0      (河村―島原と木戸―堀内が好投譲らず)
第5戦 5―6    島原幸雄 木戸美摸  和田博実2発、十時啓視、川上哲治
 予想外の西鉄の圧勝だった。
 
 このシリーズの時期、馬場に病魔が襲う。
 視力が極端に低下した。ぼんやりかすみ、5m先の人物を判別できなくなった。何軒か病院をまわり診察を受けた結果、ようやく脳に腫瘍があることが判明した。視力の低下は脳の腫瘍が視神経を圧迫しているためだった。
 来年への手ごたえを掴んだ矢先。現役続行は難しく、手術も難しいとの宣告を受けた馬場は、「野球ができなくなる」と視力の低下以上に目の前が真っ暗になった。(つづく)

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