2007年12月18日火曜日

瞼の裏で咲いている1955

 歌は世に連れ、世は歌に連れ
――歌謡曲、映画、野球界などの記憶を思い起こしながら、多感だったあの頃を、昭和30年代を振り返る。草野球音の瞼の裏で花のように咲いている追想を書いてみたい。よって年ごとを追う連作としたい。題して「瞼の裏で咲いている‥‥」。

 昭和20年、太平洋戦争が終わった。敗戦の痛手や食糧難と貧困にわれわれ日本人が真正面からぶつかった復興期の20年代。日本株式会社が遮二無二突っ走った経済高度成長期の30年代。そして昭和39年の東京五輪で「世界のJAPAN」となった。
 酔眼朦朧かつ痴呆気味の現在と違い、純真無垢だった頃(笑)、記憶も鮮明だった。

昭和30年編

 春日八郎の「別れの一本杉」は、球音のような小学低学年の子供も歌うほどヒットした。1955年(昭和30)、高野公男作詞・船村徹作曲により世に出た。
 ♪泣けた 泣けた
 こらえきれずに 泣けたっけ
 高度成長期の日本株式会社は労働力の需要期であった。この頃から集団就職の列車は上野を目指したのだろう。東京に人は集まった。俺は上京したが、結婚を誓ったあの娘は故郷に残った。村のはずれの一本杉まで見送った。
 3番の歌詞の出てくる、
 ♪嫁にもいかずに この俺の
 帰りひたすら 待っている
 あの娘はいくつ とうに二十歳(はたち)はよう
 過ぎたたろうに
適齢期を過ぎたあの娘が待っている故郷はたまらなく切ない。

 高野公男(1930年―1955年)は薄命の人だった。「別れの一本杉」がヒットして間もなく肺結核に侵され、発売された昭和30年、25歳の若さで帰らぬ人となる。船村徹とは売れない貧乏学生の時からの親友であった。彼の短い生涯は翌1956年、松竹で映画化されている。
 春日八郎(1924年―1991年)はすでに1952年「赤いランプの終列車」、1954年「お富さん」のヒットで一流歌手であったが、「別れの一本杉」でその地位を不動にした。昭和30年には三橋美智也(1930年―1996年)が「おんな船頭唄」(西條八十作詞・万城目正作曲)で、島倉千代子が「この世の花」(藤岡哲郎作詞・山口俊郎作曲)でデビューを飾っている。

 ♪田舎のバスは おんぼろ車
中村メイコの「田舎のバス」(三木鶏郎作詞・作曲)が明るく歌い、ビブラートが特徴的でかって歌まねの定番であった菅原都々子の「月がとっても青いから」(清水みのる作詞・陸奥明作曲)、宮城まり子の「ガード下の靴みがき」(宮川哲夫作詞・利根一郎作曲)、鶴田浩二の「赤と黒のブルース」(宮川哲夫作詞・吉田正作曲)、美空ひばりの「娘船頭さん」(西條八十作詞・古賀政男作曲)も同年の作品である。
 
 映画では宍戸錠のデビュー作として記憶に留める森繁久弥主演の「警察日記」(日活=久松静児監督)がある。三島雅夫、十朱久雄、三國連太郎、杉村春子、伊藤雄之助、東野英治郎、沢村貞子などの芸達者が揃った出演者のなかで、子役の二木てるみの演技が評判を呼んだ。
 米小説家ジョン・スタインペックの長編「エデンの東」を、ジェイムス・ディーン主演でエリア・カザンが監督として映画化している。

 プロ野球セ・リーグは読売ジャイアンツ、パ・リーグは南海ホークスがリーグ制覇し、日本シリーズで対決したが、巨人が4勝3敗で日本一に輝いている。別所毅彦(1922年―1999年)が3勝を稼ぐ活躍で、シリーズMVPに輝いた。長嶋茂雄も王貞治もいない巨人で、「ジャイアンツ・馬場正平」(2007年11月10日の項)の項でも書いたが、馬場のほか森昌彦(岐阜高)、国松彰(同志社大中退)、エンディ・宮本(ハワイ朝日)が入団した年であった。

・昭和30年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=川上哲治(巨人)・飯田徳治(南海)
新人王=西村一孔(大阪)・榎本喜八(毎日)
首位打者=川上哲治(巨人)・中西太(西鉄)
本塁打王=町田行彦(国鉄)・中西太(西鉄)
打点王=川上哲治(巨人)・山内和弘(毎日)
最優秀防御率=別所毅彦(巨人)・中川隆(毎日)
最多勝=長谷川良平(広島)大友工(巨人)・宅和本司(南海)
最優秀勝率=大友工(巨人)・中村大成(南海)

 高校野球は春の選抜大会が浪華商(大阪)、夏の選手権大会は四日市(三重)が優勝している。浪華商の4番、坂崎一彦(巨人―東映)が打率6割、2本塁打、10打点を記録し「戦後最強打者」と言われた。

 昭和30年下半期の芥川賞は石原慎太郎が「太陽の季節」で受賞している。石原慎太郎は一橋大学生であった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

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