2008年1月24日木曜日

瞼の裏で咲いている1962

昭和37年編

 1962年・昭和37年は、東京都が世界初の1,000万都市となり、テレビ受信契約数が1,000万件を突破、堀江謙一がヨットで太平洋単独横断に成功し、王貞治が一本足打法を採り入れ本塁打を量産、美空ひばりと小林旭が挙式し、国際的には米ケネディ大統領がキューバを海上封鎖した「キューバ危機」があった年であったが、草野球音の目には、吉永小百合がひときわ光彩を放っていた。
 
 寡作ながら数々の秀作を生んだ映画監督、浦山桐郎(1930年―1985年)の監督デビューとなる映画「キューポラのある街」(1962年・日活)に主演した吉永小百合は、橋幸夫とのデュエット曲「いつでも夢を」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、マヒナスターズとの「寒い朝」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)で歌謡界でもたて続けにヒットを飛ばした。
 「キューポラのある街」の演技でブルーリボン主演賞、「いつでも夢を」でレコード大賞を受賞している。

 「キューポラのある街」は早船ちよの原作を映画化したもので、15歳・中学3年生の石黒ジュン役を当時高校在学中の吉永小百合が演じた。
 鋳物の街、埼玉県川口が舞台である。キューポラとは、鋳物製造で銑鉄(せんてつ)を溶かすのに用いる円筒形の直立炉、溶銑炉のことだそうだ。ジュンの父親で鋳物職人に東野英治郎(1907年―1994年)、ジュンと同じ長屋に住む若い工員に浜田光夫、ジュンの弟に市川好郎といった配役だったと記憶する。
 物語は父親がリストラされるところから始まり、いろいろな経験を経て、高校進学を希望していたジュンだが、働きながら定時制高校で学ぶ道を選択する。貧しいが明るく健気に生きる少女を小百合が好演した。ジュンの弟タカユキの市川好郎と、その朝鮮人の友達サンキチ(森坂秀樹)ら子役の演技の巧さにびっくりさせられたなぁ。
 サンキチの家族が北朝鮮に行くことになる場面があった。当時、球音は気に留めなかったことだが、今にして思えば、あれは「地上の楽園」と宣伝し北朝鮮へ在日朝鮮人を送った「帰国事業」であった。
 
 浦山桐郎は翌1963年(昭和38)に和泉雅子、浜田光夫の主演で「非行少女」(日活)を撮っている。

 「いつでも夢を」は橋幸夫、吉永小百合という超アイドル同士のデュエットで、レコードは別々に吹き込みをしたという。テレビでもめったに2人揃って歌うシーンはお目にかからなかった。映画「いつでも夢を」(日活・野村孝監督)は翌1963年、定時制高校に通う男女の青春を描いている。小百合は看護婦、浜田光夫は工員、橋幸夫はトラック運転手の役を演じた。主題歌の「いつでも夢」はもちろん、「潮来笠」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)や「寒い朝」も挿入され、橋幸夫と小百合の両方のファンにも楽しめる内容になっていた。

 「キューポラ―」「いつでも夢を」の両作品に「定時制高校」という言葉が出てきた。高校進学率は戦後上昇の一途を辿り、1974年に90%超え2005年には97.6%となっている。当時の高校進学率は60%超で、40%弱の家庭が中学卒業後に就職をしていた。また働いて家計を助けるのは当たり前の時代であった。そのうち向学心のある者は仕事のあと、夜間の定時制に通った。経済高度成長期にあった日本を、労働力として足元から支え、将来への夢と希望を抱く若者がいた。そんな現実を映画や歌が映し出したといっていい。

 同年、松竹の新進女優・倍賞千恵子の「下町の太陽」(横井弘作詞・江口浩司作曲)もヒットした。これも翌1963年(昭和38)山田洋次監督のメガホンにより同名タイトル「下町の太陽」で映画化(松竹)された。倍賞が扮したのは家並みが密集する東京下町で働く女工であった。勝呂誉、早川保が共演した。ドラマ設定は「キューポラ―」「いつでも夢を」と似ていて、当時のトレンドだったのだろうか。

 吉永小百合自身も多忙のため高校(精華学園)を中退し、大学入学資格検定を経て早稲田大学第二文学部史学科西洋史専修に入学、スケジュールを調整しながら夜間に通い卒業を果たしている。
 
 昭和37年の日本映画の佳作を挙げると、
「切腹」(松竹・小林正樹監督)=仲代達矢
「破戒」(大映・市川崑監督=市川雷蔵
「椿三十郎」(黒澤プロ=東宝・黒澤明監)=三船敏郎
「座頭市物語」(大映・三隅研次監督)=勝新太郎
がある。
 洋画では、
ジョン・ウェインの「史上最大の作戦」
アラン・ドロンの「太陽はひとりぼっち」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)がある。

 歌謡界では、橋幸夫は「江梨子」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)を出し、股旅物から青春歌謡へイメージチェンジを図った。同年に大映で映画化され、橋と共演する江梨子役には、新東宝から移籍した三条魔子が務め、その後三条「江梨子」に改名した(さらに「魔子」に戻している)。江梨子改名は、新東宝でのセクシー路線を払拭し、清純派への転進を狙ったと想像する。
  
 植木等は絶好調で歌唱力を生かしたコミックソング「ハイそれまでヨ」(青島幸男作詞・萩原哲晶作曲)をヒットさせた。低音の魅力、フランク永井は「霧子のタンゴ」(吉田正作詞作曲)を、石原裕次郎は「赤いハンカチ」(萩原四郎作詞・上原賢六作曲)を歌った。
 色っぽい五月みどりの「一週間に十日来い」(小島胡秋作詞・遠藤実作曲)、美空ひばりの「ひばりの佐渡情話」(西沢爽作詞・船村徹作曲)、三橋美智也の「星屑の町」(東条寿三郎作詞・安部芳明作曲)、北原謙二の「若いふたり」(杉本夜詩美作詞・遠藤実作曲)、畠山みどりの「恋は神代の昔から」(星野哲郎作詞・市川昭介作曲)などが流行った。

 そのころ、漣健児という名前をよく目にした。珍しい苗字なので、姉に聞くと「さざなみ・けんじ」だという。クリスマスソングの「赤鼻のトナカイ」や坂本九ちゃんが歌った「ステキなタイミング」などの訳詞を手掛けている。同年、甘ったるい声の飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」(ジーン・ピットニー)やパンチの効いた弘田三枝子の「VACATION」(コニー・フランシス)「悲しき片思い」(ヘレン・シャピロ)は、彼の訳詞でカバーしたものだった。
 腰に両手をあて汽車ポッポの仕草で「ロコモーション」を伊東ゆかりが歌っていた。

×  ×  ×

 プロ野球では読売ジャイアンツから東映フライヤーズに移籍2年目の水原茂監督がパ・リーグを制し、藤本定義監督の阪神タイガースが2リーグ分裂後初のセ・リーグ優勝を果たした。
 東映の当時のメンバーは、投手陣に江戸っ子エース土橋正幸、17歳の怪童・尾崎行雄、制球力の久保田治、早稲田伝説の安藤元博を擁していた。打撃陣には確実性と長打の張本勲、シュアな毒島章一、勝負強い吉田勝豊、暴れん坊・山本八郎、西園寺昭夫、青野修三、岩下光一など曲者揃いだった。個性豊かな集団をまとめたのが水原である。

 日本シリーズは東映が、
第1戦●5―6
第2戦●0-5
第3戦△2―2
第4戦○3-1
第5戦○6-4
第6戦○7-4
第7戦○2-1
の4勝2敗1分で日本一に輝いている。シリーズMVPには土橋正幸と種茂雅之のバッテリーが選ばれた。

 水原は、宿命のライバル三原脩の大洋に初優勝を許した1960年(昭和35)に巨人を辞任し、1961年から東映で指揮を執った。巨人11年間の監督生活で8度のリーグ制覇、4度の日本一に輝いた勝負師は、ここに両リーグで日本選手権を制した。

・昭和37年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=村山実(阪神)・張本勲(東映)
新人王=城之内邦雄(巨人)・尾崎行雄(東映)
首位打者=森永勝也(広島)・ブルーム(近鉄)
本塁打王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
打点王=王貞治(巨人)・野村克也(南海)
最優秀防御率=村山実(阪神)・久保田治(東映)
最多勝=権藤博(中日)・久保征弘(近鉄)
最優秀勝率=小山正明(阪神)・皆川睦夫(南海)
 同年は長嶋茂雄が入団5年目で初めて打率3割を下回る不振だった。王貞治は打撃コーチ荒川博の指導で一本足打法を採り入れ、本塁打38、打点85で初のタイトルを獲得した。

 高校野球では春の選抜大会、夏の選手権大会ともに作新学院(栃木)が優勝した。選抜は八木沢壮六(早稲田大―東京=ロッテ)、選手権は加藤斌(たけし・中日)と、主戦投手が代っての珍しい春夏連覇だった。

 八木沢は八幡商(滋賀)で延長18回(2-2)引き分け再試合、その後の松山商(愛媛)でも延長16回を投げ切った。早稲田大では24勝、ロッテの1973年(昭和48)には太平洋戦で完全試合を達成している。ロッテ監督して1992年から1994年シーズン途中まで指揮を執っている。球音は仙台の宮城球場で完全試合達成の瞬間を観ている。

 加藤斌は、夏の甲子園で八木沢が赤痢の疑いで出場停止となったため、急遽マウンドを任された下投げ投手で、準決勝の中京商(愛知)に2-0、決勝の久留米商(福岡)を1-0と連続完封した。エース不在を埋めて余りある活躍だった。中日入りし、将来を嘱望されたが、2年目のオフに交通事故死している。ちなみに加藤の入団が縁で、中日やロッテでコーチを務めた土屋弘光は加藤の姉と結婚している。
 
※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

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