2008年5月6日火曜日

球侍の炎1968ドラフトⅣ

飯島秀雄の巻:三

 1968年度(昭和43)ドラフト会議で東京(ロッテ)オリオンズから指名を受け、入団した飯島秀雄は、代走スペシャリストとして現役3年、ランニングコーチとして1年、わずか4年間でプロ野球の世界から足を洗うことになった。

 プロ野球では成功者とはいえない飯島だが、その陸上競技では輝いていた。日本陸上界に一時代を築いた男である。
 
 プロ野球入団前の飯島を辿る。
 1944年(昭和19)1月1日生まれの茨城県出身。県立水戸農業高で韋駄天ぶりが注目され、才能を買われ東京の私立・目黒高校に転向する。ここで「暁の超特急」と異名をとり、当時の100M走日本記録保持者である吉岡隆徳の指導を受け、本格的に陸上競技者に取り組んだ。

吉岡隆徳(よしおか・たかよし:生年1909年(明治7)―没年1984年(昭和59)。1932年(昭和7)ロサンゼルス五輪の100M走で6位入賞を果たし、1935年6月には2度にわたり10秒3の世界タイ記録を出している伝説の名ランナー。東京五輪に備え、飯島と依田郁子(1938年―1983年)の2人のスプリンターを指導した。

 目黒高から早稲田大学教育学部に入学した飯島は、競争部に入部した。東京五輪を控えた1964年(昭和39)6月26日、西ベルリンで行われた国際陸上競技会の100M走で10秒1の記録を出し、師匠の吉岡の日本記録を29年ぶりに更新した。このとき、日本中に飯島に対する期待が大いに膨らんだ。
 いよいよ東京五輪を迎えた。100M走の第一次予選は予選最高タイムで通過、第二次予算も通過したが、ゴール直後に転倒した。その影響か、世界の壁か、準々決勝は10秒6と振るわず、敗退した。
 ちなみに優勝し金メダルに輝いたのはボブ・ヘイズ(米国)で10秒0、銀メダルはエンリケ・フィゲロア(キューバ)10秒2、銅メダルはハリー・ジェローム(カナダ)だった。
 
 早稲田大学卒業後は、地元の茨城県庁に入庁し、気分も一新、1968年(昭和43)メキシコ五輪をめざしたが、ここでも100M走の準々決勝で敗退した。そのとき電子計時で10秒34の記録を出している。
 二度にわたり五輪で破れたものの、走ることを職業にしたいと思っていた。ツテを頼りにプロ野球にアプローチし、意気に感じた永田雅一の東京(ロッテ)が、その年のドラフトで指名したのである。

 さて、プロ野球を去った飯島はどうなっただろうか。
 いくつかの職を経て、郷里の水戸で運道用具店を営んでいた1983年(昭和58)8月、運転中に新宿で5歳の女児をはね死亡させる事故を起こしてしまう。裁判で実刑判決が下り、服役する。
 その服役中に、メキシコ五輪で出した10秒34が公認日本記録となったことを、また恩師の吉岡隆徳の死去を、知る。

 社会復帰後は陸上競技のスターターを務めている。1991年(平成3)世界陸上選手権(日本開催)男子100M走で、カール・ルイス(米国)が9秒86の世界記録を樹立したときの、スターターであった。

 走ることに拘り続ける飯島秀雄の姿があった。(飯島の項・完)

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 何度かロッテのランニングコーチ時代の飯島の走る姿を、東京球場で観たことがある。助走からスピードをあげ全速となり疾走する姿は、惚れ惚れするほど美しかった。現役を引退した後のことだが、どの選手も並走できぬほど、抜きん出て速かった。
 草野球音は、そこにアスリートの矜持を看破した。

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※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

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