2008年5月17日土曜日

泰平の眠りを覚ます‥

日米修好通商条約

 ぶらり散歩に出る。
 神奈川県立歴史博物館(横浜市中区南仲通5-60=みなとみらい線馬車道駅から徒歩1分)で、特別展の「横浜・東京-明治の輸出陶磁器」(2008年4月26日~同6月22日)を観る。来年が横浜開港150周年にあたり、その記念企画である。

 ところで、「真葛焼」(まくずやき)って知っていますか?
 真葛焼とは、初代宮川香山(1842年―1916年)が横浜で始めた焼き物のことをいうそうで、京都の真葛原出身の彼は、1871年(明治3)横浜に外国への輸出向けの陶磁器を作る工房、真葛釜を開いた。
 特別展では、表面に動物などの盛り上がった細工をほどこした「高浮彫」(たかうきぼり)で作られた宮川香山の作品などが展示されていた。奇抜なデザインや、細緻を極めた絵付けなど、なかなかな見ごたえがあった。

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 神奈川県立歴史博物館の常設展示物を覘(のぞ)くと、その中にアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5カ国と結んだ修好通商条約書があった。安政の五カ国条約(修好通商条約)を締結したのは、1858年(安政5)である。

 堅く鎖国を守っていた日本が、泰平の眠りを覚ましたのは嘉永6年(1853年)6月だった。マシュー・ペリー(1794年―1858年)提督が率いる米国の艦隊4隻、いわゆる黒船が浦賀沖に来航し、江戸の徳川幕府に開港を迫るフィルモア大統領親書を手渡した。
 大慌ての幕府は、将軍・家喜の病気を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年の正月に再度来航したペリーに開国を強く要望された際には、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 米国は薪水供給のために開港した下田と箱館(函館)に領事館を置き、下田にタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)を派遣する。真綿で首を絞められるように圧力をかけられ、ついに安政5年6月、日米修好通商条約締結となる。勅許を得ないまま、同年4月に大老職に就いたばかりの井伊直弼(1815年―1860年)が強権的に結んだものだった。
 5月には、紀州藩主の徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主の徳川慶喜(1837年―1913年)を推す一橋派と激しく対立していた将軍継嗣問題は、慶福が14代将軍に就くことで決着した。慶福は家茂(1846年―1866年)と改名し、江戸城に入った。
 将軍継嗣問題で島津斉彬(1809年―1858年)らを退けた井伊直弼は強権をさらに振るい、異を唱えるものを弾圧する安政の大獄へと走る。そして、ついに1960年(万延元年)3月、江戸城へ向かう井伊大老を水戸藩、薩摩藩の浪士が襲い暗殺する桜田門外の変が起きる。
 
 1858年――安政5年。150年前に締結した日米修好通商条約に思いを馳せた。 それは泰平の眠りを覚ますエポック・メーキングな出来事であった。

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幕末年号と将軍在職
嘉永1848年―1854年 家慶(天保8年―嘉永6年)
安政1854年―1860年 家慶―家定(嘉永6年―安政5年)―家茂
万延1860年―1861年 家茂(安政5年―慶応2年)
文久1861年―1864年 家茂
元治1864年―1865年 家茂
慶応1865年―1868年 家茂―慶喜(慶応2年―慶応3年)

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