2008年7月27日日曜日

川本幸民ビールの味

黒船期に試醸

 冷えたビールが旨い今日この頃です。(「季節に関係なく、年がら年中、旨いと言って飲んでいる」、との陰の声あり)。さて、揃って食事となれば、「とりあえずビール」となりますなぁ。これを英語で言えば、
We’ll start with beer.
となると、NHK語学講座「英語が伝わる!100のツボ」で“楽習”しました――「シュダヴは後悔の表現」(2008年6月29日)。

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 ぶらり散歩に出る。
 横浜は、あの生麦事件のあった鶴見区生麦のキリン横浜ビアビレッジ(京浜急行の生麦駅から徒歩10分)である。
 1時間のブルワリーツアー(工場見学)に参加した。ビールの製造工程(原料、仕込み、発酵・貯蔵、ろ過、パッケージング)を女性ガイドが案内してくれる。最後の20分は出来たてのビールの試飲(大きなビアグラスで2杯までOK)ができる。無料なので、これは夏の時間つぶしの穴場といえる。

 さて、このビールを初めて醸造した日本人は、川本幸民(1810年―1871年)という蘭学者だった。化学の実験で試醸したのだが、幸民は自分で醸して飲みたい気持ちがあったのではないか。彼は飲兵衛だったという。
 このビールの試醸は、黒船来航の嘉永6年(1853年)頃だった。当時、西欧でよく読まれていた、ドイツの農芸化学書のオランダ語版を自ら翻訳した「化学新書」を手に、江戸・芝露月町の私宅で作ったビールはどんな味だったろうか。
 
 1810年(文化7年)摂津国有馬郡三田藩(兵庫県三田市)の藩医の子として生まれる。幼少の頃から勉学に励む。江戸に出てオランダ医学を学び、後に物理・化学を分野まで精通する、著名な蘭学者となる。学識を買われ、薩摩藩に迎えられている。
 化学という言葉を初めて使った人としても知られ、マッチ、銀板写真の製作なども手掛けていて、西欧の文化を幕末、明治維新期の日本に紹介することで大いに貢献した。偉大な学者だった。

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 日本での本格的なビール醸造は、文明開化の横浜から始まった。
 1870年(明治3年)、アメリカ人のウィリアム・コープランド(1834年―1902年)が横浜居留地・山手123番(現在の中区、北方小学校付近)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設し、日本で初めて商業的にビールを醸造した。客は主に居留地の外国人だった。その後、麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」に引き継がれ、1888年(明治21年)「麒麟ビール」が全国に販売された。
 1923年(大正12年)の関東大震災で、山手工場が破損したため、生麦に工場を移転し、今日に至っている。

 キリン横浜ビアビレッジの見学コース入り口から徒歩3分ほどのところに、あの「生麦事件」のあった場所を示す石碑が、よく見ないと通り過ぎるほど地味に建っている。薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。文久2年(1862年)のことだった。

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