2009年2月19日木曜日

山内一弘:memory

数々の異名が残った

 プロ野球の毎日、大毎(現ロッテ)、阪神、広島の強打者として活躍し、ロッテ、中日で監督を務めた山内一弘が2009年2月2日、肝不全のため亡くなった。76歳だった。
 
 小学2年生で野球を始めた草野球音が、まず憧れたのは巨人の不動の4番であり、「打撃の神様」であった川上哲治だった。その姿に後光が射している、スーパースター長嶋茂雄が巨人入団するまで、山内和弘がご贔屓だった。当時は「和弘」であった。いや、長嶋登場後も、好きな選手であり続けた。
 BNという言葉を勝手に造語している。Before Nagashima長嶋登場前である。BC=Before Christ、西暦紀元前というように、日本プロ野球にとって、長嶋は“Jesus Christ Superstar”並みの存在であり、彼の登場を境にプロ野球の歴史は分けられるのではないか。
 BNにおいて、攻守走三拍子揃った選手の典型が山内和弘であった。
 当時、パ・リーグの強打者といえば、西鉄の「怪童」中西太と毎日の山内が双璧だった。中西も三拍子揃っていた。守備力もあり、足も速かった。体型からイメージ的に損をしているようだが、セ・リーグの熟年の川上哲治に比べて、若きヒーロー2人だった。山内、中西を追うように南海の野村克也が登場する。
 川上の現役最後の年は、長嶋の入団の年であった。翌年、王貞治が早実から巨人入団し、その後ON時代に突入する。
 昭和20年代後半から40年代にかけての、日本プロ野球史の打撃編を、極短く言うとこうなる。

 さて山内である。
1932年(昭和7年)愛知県一宮市生まれ。1951年、愛知県立起工業高校卒業後、ノンプロ川島紡績に入社。1952年(昭和27年)毎日オリオンズ入団。3年目の1954年に97打点で初のタイトルを獲得、翌1955年も打点王(99打点)、1959年に本塁打王(25本)を手にした。

 印象に残るのは、1960年(昭和35年)である。日本シリーズこそ、知将・三原脩率いる大洋に4連敗と、予想外の大敗を喫したが、レギュラーシーズンの活躍は目覚しかった。ミサイル打線の核だった。31本塁打、103打点で2冠に輝いた。打率は3割1分3厘で、同僚の榎本喜八(.344)、田宮謙次郎(.317)に次ぐ3位であった。
 当時の打線をみてみよう。
一(遊)柳田利夫
ニ(中)田宮謙次郎
三(一)榎本喜八
四(左)山内和弘
五(三)葛城隆雄
六(捕)谷本稔
七(ニ)坂本文次郎
八(右)矢頭高雄
九(投)――
 八田正が控え内野手であった。捕手の控えは醍醐猛夫である。投手は、小野正一(左腕)、中西勝己、若生智男がいた。監督は信念の指揮官・西本幸雄だった。結局、西本はこの敗戦が因で、オーナーの永田雅一と抜き差しならぬ確執に発展し退団することになる。
 山内はシーズン最高殊勲選手(MVP)に輝いた。

 1962年30歳を迎えたシーズン途中に、「和弘」から「一弘」に改名した。「和」は丸く回り道をするので、「一」ならばものの始まりでそこから無限に続くので、改名した方がよいとファンから進言された、という。

 1964年、阪神の小山正明と世紀の大トレードで阪神に移籍する。以降の大型トレードの道を開いた。
 1967年シーズン終盤に、昭和生まれで初めて、プロ野球史上では川上哲治に次ぐ2000本安打を達成した。
 1968年広島移籍し、1970年に現役を引退した。

 現役19年の生涯通算成績は、2235試合、7702打席、2271安打、396本塁打、1286打点、平均打率は2割9分5厘を残す。
 首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回。最高殊勲選手賞1回、ベストナイン10回を数える。外野手(主に左翼手)の守備も巧く、プロ野球最多通算補殺175の記録を保持している。

 指導者になってからの業績も著しい。特に打撃コーチとして評価は高い。
1971~74年 読売ジャイアンツ打撃コーチ(V7・V8・V9に貢献)
1975~77年 阪神タイガース打撃コーチ
1979~81年 ロッテオリオンズ監督(前期2回優勝)
1984~86年 中日ドラゴンズ監督
1987~89年 読売ジャイアンツ打撃コーチ(日本シリーズ優勝)
1991~93年 オリックスブルーウェーブヘッドコーチ
1995年 阪神タイガース打撃コーチ
1996年 ヤクルトスワローズ打撃コーチ
1998~99年 台湾プロ野球和信鯨打撃コーチ(優勝)
そして2002年に野球殿堂入りを果たした。

 「打撃の職人」「オールスター男」「シュート打ちの名人」「かっぱえびせん」と異名は多い。
 オールスター男は、球宴出場16回でMVP3回に輝き、賞金を手にした。「賞金泥棒」とも言われた。
 かっぱえびせんは、巨人の打撃コーチ時代(1971年~1974年)その指導が熱心で教えだしたら「やめられない、止まらない」ことから、武宮敏明寮長が「まるで“かっぱえびせん”のようじゃなぁ」と言ったのを巨人番記者が聞きつけ原稿にしたところ、有名なテレビCMのフレーズもあり、あっと言う間に広まったという。

 異名は個性の凝縮である。山内一弘――昭和に輝いた個性豊かな野球人を、永遠に記憶に留めたい。
 
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※敬称略。文章中に事実誤認、赤字などありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

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