2010年11月30日火曜日

岩崎夏海「もしドラ」

ドラッカー本で甲子園めざす
 2010年年間ベストセラー総合1位、岩崎夏海の「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(ダイヤモンド社)を読む。

 進学校の都立程久保高校の野球部は弱い。とても甲子園出場など夢のまた夢。その野球部に親友のたっての頼みで川島みなみは女子マネージャーを引き受ける。掲げた目標はなんと「野球部を甲子園に連れていく」。
 みなみが書店で偶然手にしたドラッカーの経営書『マネジメント』を教科書に、指導者、部員らに意識改革を進め、甲子園をめざす物語。

目次
・プロローグ
・第1章 みなみは『マネジメント』に出会った
・第2章 みなみは野球部のマネジメントに取り組んだ
・第3章 みなみはマーケティングに取り組んだ
・第4章 みなみは専門家の通訳になろうとした
・第5章 みなみは人の強みを生かそうとした
・第6章 みなみはイノベーションに取り組んだ
・第7章 みなみは人事の問題に取り組んだ
・第8章 みなみは真摯さとは何かを考えた
・エピローグ
・あとがき

×  ×  ×

 甲子園とドラッカーという発想のユニークさ着眼点のよさ――岩崎夏海さんが只者じゃない証拠だろう。
『マネジメント』と女子マネージャー、英語の語源は同じだが、日本語の意味は違うよね。マネジメントは「経営」と訳し、野球部の女子マネージャーの仕事は「雑用係」だ。結びつけるには、ちょいと強引だが、軽く読ませてくれました。
 萌え系イラストの表紙カバーもストーリーも少女漫画チックです。
2010年11月28日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月27日土曜日

加藤廣「信長の棺(上・下)」

太田牛一が謎を解く
 加藤廣の「信長の棺(上・下巻)」(文春文庫)を読む。

 本能寺に変で憤死した織田信長の遺骸は、明智光秀の懸命な捜索にもかかわらず発見されなかった。戦国期最大級の日本史ミステリーに、信長の右筆・太田牛一が挑み、信長の遺骸はどこに消えたのか・なぜ秀吉は「中国大返し」ができたのか、秀吉の出自などの謎を解いていく。

 太田牛一(おおた・ぎゅういち)の略歴を『ウィキペディア』であたると、
――弓の腕を見込まれ信長の家臣となった戦国武将。文筆に優れ、信長、豊臣秀吉、徳川家康らの軍記を残し、「信長公記」が有名。晩年、大阪天満で隠遁生活をする―とある。

目次:上巻
・第1章 安土脱出
・第2章 市中の隠・太田牛一
・第3章 捨万求一

目次:下巻
・第1章 舟入学問所
・第2章 隠れ里・丹波
・第3章 吉祥草は睡らない

×  ×  ×

 加藤廣さんは75歳で「信長の棺」で執筆し、後に「秀吉の枷」「明智左馬の助の恋」と著わした。これを「本能寺三部作」と呼ぶそうな。アラ還などはまだ鼻たれ小僧と、あらためて自覚したしだいです。
2010年11月26日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月23日火曜日

お祭りマンボの「スリバン」とは

星野哲郎⇒美空ひばり
 先日亡くなった作詞家・星野哲郎さんが、歌謡界の女王・美空ひばりさんに贈った曲は意外と少ない。演歌というジャンルの頂点に立つふたりの長いキャリアから、さぞやカップリング曲が多いかといえば、頭に浮かぶのは「浜っ子マドロス」「みだれ髪」ぐらいでしょうか。
 唐突ですが、星野さんから美空ひばり作品に話題は移ります。※敬称略

×  ×  ×

 美空ひばりの歌に「お祭りマンボ」がある。作詞作曲はともに原六朗。1952年(昭和27年)の作品。
 ♪おじさんおじさん 大変だ
  どこかで半鐘が なっている
  火事は近いぞ スリバンだ

 神田生まれのおじさんと浅草育ちのおばさんが大好きな祭りに夢中になるあまり、火事で家を焼かれたおじさんと、空き巣に入られヘソクリを盗られたおばさんが嘆き悲しむのだが、これぞ『あとの祭り』という、起承転結の効いた歌だった。

 さて「スリバン」である。
 三省堂デジタル大辞泉を引くと、
「すりばん」(擦り半、擂り半)は「擦り半鐘の略」とあり、さらに「擦り半鐘」にあたると、「近火を知らせるために、半鐘を続けざまに鳴らすこと。また、その音。すりばん」とある。

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほどに、江戸に火事が多かった。燃えやすい木造建築という構造上の問題に加え、江戸は18世紀に100万人を超え世界有数の人口過密都市だったことが、火事多発の原因だったのでしょう。
 江戸時代、放火は重罪でした。恋する男会いたさに放火した「八百屋お七」は鈴ヶ森で火刑に処せられたし、「鬼平」こと長谷川平蔵は火附盗賊改方で、職名が示すように火附け(放火)は押し込み強盗などと並ぶ凶悪犯罪だったのです。
 町内ごとに火の見櫓(やぐら)を設け、火災の早期発見に努めていました。半鐘の鳴らし方で火元までの距離を知らせていたのですね。
・ジャーン…………ジャーン…………:火元は遠い
・ジャンジャンジャン……ジャンジャンジャン:火元は近い
・鐘の中で擦ります乱打:火元は至近
 
 よって「お祭りマンボ」に出てくる「スリバン」は近所の火事なのです。

×  ×  ×

「“半鐘泥棒”っていわれたもんだよ」
 亡くなったお袋は明治生まれで、尋常小学校のころ大柄で遊び仲間によくはやされたそうだ。昔話に「そんなわけないだろう」と信用しなかった。自称五尺二寸(約157センチ)。いくら昔でもフツーサイズだ。早熟だったのだろうか。
 ガキのころ、近所の広場に火の見櫓(やぐら)があった。櫓のテッペンに半鐘が吊ってあった。昭和30年代初めまで建っていたのだが、その後どうなったのだろうか。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月21日日曜日

星野哲郎:アンコ椿は恋の花 FOREVER

なみだ船そして兄弟船
 11月15日――作詞家の星野哲郎さんは坂本龍馬の命日に亡くなりました。
 享年85歳の星野さんは、その昔船乗りでした。遠洋漁業の船員時代に腎臓結石を患い下船を余儀なくされました。海への憧れがあったのでしょう。潮の香り漂う作品が多い。独断で3曲選び、口ずさみます。※以下敬称略

×  ×  ×

アンコ椿は恋の花1964年
 離島の伊豆大島では娘さんを「アンコ」と呼ぶそうな。そのアンコが東京の人と恋をした。都はるみが歌いヒットした1964年(昭和39年)当時は、海を隔てた「遠距離恋愛」。ケータイなんてない時代で、手紙のやり取りも3日かかったのですな。

 ♪三日遅れの 便りをのせて
  船は行く行く 波浮港

 東京都大島町。れっきとしたアンコは東京都民なのですが……。
 都はるみ16歳。うなり節は印象的でした。作曲は市川昭介でした。都のデビュー曲は「困るのことよ」です。

なみだ船1962年
 ♪涙の終りの ひと滴(しずく)
  ゴムのかっぱに しみとおる

 今や歌謡界の大御所・北島三郎の事実上のデビュー曲。作曲は船村徹。
 では、本当のデビュー曲は?
「ブンガチャ節」です。作詞・星野哲郎、作曲・船村徹です。「あの娘いい娘だ こっち向いておくれ」とえらく若いサブちゃんが歌っていましたっけ。
「なみだ船」は北海の漁師ヤン衆の歌です。

兄弟船1982年
 ♪波の谷間に 命の花が
  ふたつ並んで 咲いている

 鳥羽一郎のデビュー&ヒット曲です。これも作曲は船村徹。
 おやじの形見の船で、漁をする兄弟は、おふくろ思いです。親孝行がしたくて、シケの海にも船を出します。まるで鳥羽一郎と山川豊ですな。ふたりの母親は三重県鳥羽の海女だったとどこぞで読んだことがあります。
「なみだ船」、「アンコ椿は恋の花」、「兄弟船」は北島三郎、都はるみ、鳥羽一郎が世に認められた曲なのです。

 潮の香りのする名曲。そして坂本龍馬は「海援隊」、海の男ですね。
 星野哲郎は塩歌の達人なのです。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月18日木曜日

星野哲郎:函館の女 FOREVER

函館・博多そして薩摩へ尋ね旅
 11月15日に85歳で亡くなった星野哲郎さんは、「函館の女」をはじめとした「女シリーズ」を遺している。歌うは北島三郎。口ずさんでみたい。※敬称略

×  ×  ×

「函館の女」1965年
 ♪はるばるきたぜ 函館へ
   さかまく波を のりこえて

「女」は「ひと」と読ませる。「女」シリーズは、愛するひとを尋ね歩く男の物語である。作詞はもちろん星野哲郎。作曲は島津伸男。歌唱は北島三郎である。
 恐らく「函館―」がヒットして、続編が生まれたのだろう。

 故郷函館で出逢って、愛し合ったふたり。そして別れの時。すがる女を振り切って男は都会をめざした。何年か経ち、初恋の女への想いを忘れられず北の大地・函館の女を尋ねる。が、かつて住んでいた松風町に彼女の姿はなかった……。

博多の女1967年
 ♪ひとの妻とも 知らないで
  おれはきたんだ 博多の町へ

 函館から戻った男は彼女が博多にいるという噂を耳にする。
 博多で再会したが、女は人妻になっていた。「逢わなきゃよかった」と後悔する。夜の那珂川の川べりで、泣いてわびる女のいじらしさに何もいえない。「それじゃ、な」と中洲の街へ消える男。まぶた合わせると昔の女の姿が浮かぶのだった。

薩摩の女1968年
 ♪義理あるひとに 背を向けて
  別れてきたと 君は泣く

 人妻は夫を捨て、鹿児島にやってきた。雨が降る天文館で男の胸に飛び込む。肩に回した男の腕に力がはいる。仰ぎみれば桜島が燃えている。「故郷で待っていてくれ」とささやいて男は、錦江湾から船出する。
 悲恋の旅の始まりなのか。

 函館⇒博多⇒薩摩の旅路三部作はドラマ仕立てになっています。それぞれご当地ソングとして親しまれているようです。土地との『縁』を感じさせる歌詞になっています。
 星野哲郎は、縁歌の達人なのです。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

貴田庄「原節子 あるがままに生きて」

伝説の女優・永遠の処女
『伝説の女優』「永遠の処女」というお定まりの冠詞は知っているが、原節子の映画はほとんど観ていない。代表作である小津安二郎監督の「東京物語」はDVDで観た程度である。※敬称略
 
 そんな原節子知らずだが、加東大介主演の「大番」は、彼女を銀幕で観た数少ない映画だ。原作は獅子文六。東宝で、監督・千葉泰樹で4作品撮られた。
・大番 1957年
・続大番 風雲篇 1957年
・続々大番 怒涛篇 1957年
・大番 完結篇 1958年

 愛媛宇和島の片田舎に生まれた主人公ギューちゃんが兜町を舞台に相場で大儲けしたり、大損したしながら繰り広げる人情喜劇だった。面白かった。
 原節子はギューちゃんの故郷宇和島の資産家の令嬢、憧れの女性として登場する。
 丁稚あがりの相場師・加東とセレブな深窓の令嬢・原がいかにも対照的だった。なによりも原が登場すると(出演場面は少ないが……)、スクリーン全体が凛とした雰囲気が漂ったのである。あれは演出もあるが、原節子という女優のオーラであったと、ガキのころだったが、感心したものだ。

×  ×  ×

 貴田庄(きだ・しょう)の「原節子 あるがままに生きて」(朝日文庫)を読む。

 経済的な理由から14歳で映画界に飛び込んだ天性の美貌の持ち主会田昌江が原節子となり、当初『大根』といわれたが、やがて映画の魅力に憑かれ大女優になる過程を、映画関係者の証言や豊富な資料で綴っている。
 巨匠の小津安二郎や黒澤明の「原節子評」は興味深い。

×  ×  ×

 原節子って、水着姿や入浴シーンもめったに見せない女優だよね。42歳で映画界を去り、その後はひっそりと暮らしています。大正9年、西暦でいえば1920年生まれの今年90歳。まさに『伝説の女優』ですね。
2010年11月16日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月17日水曜日

星野哲郎:人生の応援歌 FOREVER

出世街道・男はつらいよ・三百六十五歩のマーチ
 11月15日に85歳で亡くなられた作詞家の星野哲郎さんには、「三百六十五歩のマーチ」に代表される『人生の応援歌』というべき作品が多い。苦しい時、悲しい時、迷った時……背中を後押して励ましてくれた作詞を口ずさんでみたい。※以下敬称略

×  ×  ×

 団塊の世代である。
 小学校では同学年が10クラスあった。中学校で11クラス、高校で9クラスあった。大学受験は狭き門だった。就職も苦労した。やっとこさ入った会社ではライバルがいた。出世なんて……口ではいいながらも、出世競争に参入してしまった。一歩でも上を目指し奮闘した。
 風呂場で歌い、仕事の前には気合いを入れた。畠山みどりが歌った「出世街道」が身体の中を流れていた。作詞はもちろん星野哲郎。作曲は市川昭介。

 ♪やるぞみておれ 口には出さず
  腹におさめた 一途な夢を

 男は所詮「一本どっこ」だった。己だけが頼りだった。仕事人生のテーマ曲だったなぁ。

「男はつらいよ」。
 マドンナに惚れるが、結局はふられてしまう寅さんの渥美清が歌う。2番の歌詞に励まされました。

 ♪ドブに落ちても 根のある奴は
  いつかは蓮の 花と咲く

 作曲は山本直純だった。

 水前寺清子の歌に人生の応援歌は多い。
 まず「三百六十五歩のマーチ」だ。作曲は米山正夫。
 
 ♪しあわせは 歩いてこない
  だから歩いて ゆくんだね

 けだし名言である。しあわせの道程は平坦ではない。1日1歩、3日で3歩と順調に歩むかと思えば、挫折があり、2歩さがる。汗をかき、ベソをかき、休まないで掴むゴールなのだ。

「いっぽんどっこの唄」は男の生きざまが伝わってくる。作曲は富侑栄。

 ♪ぼろは着てても こころの錦
  どんな花よりきれいだぜ

 若い時は二度とない。男ならどんやれ、と励ましてくれる。

「どうどうどっこの唄」は人生七転び八起を謳う。

 ♪勝った負けたと さわぐじゃないぜ
  あとの態度が 大事だよ

 まさにおっしゃる通りです。作曲は安藤実親。

 脈絡なく人生の応援歌を挙げてみた。星野哲郎は援歌の達人なのだ。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月16日火曜日

作詞家・星野哲郎 FOREVER

黄色いさくらんぼ・おんなの宿・昔の名前で出ています
「黄色いさくらんぼ」「函館の女」「三百六十五歩のマーチ」などのヒット曲で知られる昭和を代表する作詞家・星野哲郎(ほしの・てつろう)さんが2010年11月15日亡くなった。85歳だった。※以下敬称略

×  ×  ×

 ♪若い娘が(ウッフン) お色気ありそうで(ウッフン)
  なさそうで(ウッフン) ありそうで(ウッフン)

 なんだ、この歌は。「黄色いさくらんぼ」は衝撃だった。
 流行ったのは小学校高学年だった。街っ子でませたガキには、『おとなの世界』を感じさせた。人前で歌うのは「これはまずいぞ」と憚(はばか)ったものだ。
 作曲したのは、あのヘンテコな曲「僕は泣いちっち」のハマクラこと浜口庫之助とわかったが、作詞が星野哲郎と知ったのは随分と後のことだった。
 思わせぶりな作詞は只者ではない。スリー・キャッツの歌唱もあり、1959年(昭和34年)のヒット曲となった。
 昭和歌謡史に残るお色気ソングだと思う。

 大下八郎が歌った「おんなの宿」も作詞が記憶に残る。作詞・星野哲郎、作曲は船村徹である。1964年の作品。

 ♪想い出に 降る雨もある
  恋にぬれゆく 傘もある

 人妻の道ならぬ恋。忍び逢い。伊豆の温泉場。……。そして。別れの朝、駅で列車を待つふたり。2番の作詞がしびれる。

 ♪たとえひと汽車 遅れても
  すぐに別れは 来るものを

「わざと時計の針を遅らせ」、少しでも一緒にいたい女心が切々と伝わってくるのだ。

 小林旭の「昔の名前で出ています」は愛唱歌である。酒場に生きる女がいる。恋する男がいた。愛した時があった。女の前にいろんな男が通り過ぎて行った。が、忘れられない男がいる。

 ♪京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの
  神戸じゃ 渚と名乗ったの

「忍」と「渚」っていかにもその土地にちなんだ源氏名だよね(笑)。
 女のホームグランドは横浜(ハマ)。愛した男と出逢ったハマに戻り、昔の名前で酒場に出て、昔の男を待っている。3番の歌詞では、ボトルに男の似顔絵を描き、「ひろみの命」と書いていることがわかる。
 昔の名前は「ひろみ」なんだ。
 ひろみさんにご指名はあったのだろうか。
 作曲は叶弦大。1975年作品。

「黄色いさくらんぼ」は成長過程にある未成熟の女性、そして「女の宿」と「昔の名前で出ています」は女盛りを描いているのですなぁ。星野哲郎は艶歌の達人なのです。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月13日土曜日

池波正太郎「獅子」

*真田信之93歳の闘い
関ヶ原の決戦前に真田信之は、昌幸と幸村の父弟と袂を分けた。下野・犬伏の別れである。戦犯として蟄居中の紀州・九度山で父の昌幸は没し、弟の幸村は大坂夏の陣で壮絶な死を遂げた。  














★いいね!ボタン
ご協力ください。

</font></span><span style=        
にほんブログ村            
    
</font></span><span style=            
人気ブログランキング                                      


戦国の世を生き抜いた真田家の信之は、徳川時代を迎えた。信頼厚い家康の死後、真田家に敵意を持つ2代将軍・秀忠から真田藩取り潰しの策謀を仕掛けられるが、草の者お江と自らの周到さで難を逃れた。が、その後、秀忠から信州・上田から信州・松代に国替えを命じられ、松代の向う。その行列を領民は惜別の涙を浮かべ見送った。
池波正太郎の「真田太平記」(新潮文庫)はここで終っている。その時、信之は57歳だった。

池波正太郎の「獅子」(中公文庫)を読む。93歳の真田信之の物語である。

信之の息で松代十万石の藩主の信政が急死する。いまわの際に庶子の1歳の右衛門佐を跡継ぎとする遺言を残す。支藩である沼田の当主、信之の孫の信利は、幕府の老中にある酒井雅楽頭忠清と謀り松代藩主の座を狙う。お家騒動が持ちあがる。

信政の遺志を継ぐ信濃の獅子・信之と老中酒井清忠との隠密を巻き込んだ闘いが繰り広げられる。

×  ×  ×

本棚から「獅子」を引っ張り出した。パラパラ捲ると文庫から1枚のレシートが出てきた。見るとビックリだ。1994年11月8日の日付がある。定価520円。消費税3%でした。
一読から16年。あらためて「真田太平記」の後に読むと、続編として味わい深い。
2010年11月13日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月11日木曜日

池波正太郎「真田太平記(十二)」

真田家憎しの秀忠の謀略とは
 池波正太郎の「真田太平記(十二)雲の峰」(新潮文庫)を読む。長い真田一族の物語の完結巻。














★いいね!ボタン
ご協力ください。

</font></span><span style=        
にほんブログ村            
    
</font></span><span style=            
人気ブログランキング                                      


大御所・徳川家康が亡くなると、2代将軍の秀忠は幕府の体制強化策として、諸大名の改易・国替えに努めた。真田昌幸・幸村の抵抗にあい、関ヶ原の決戦に遅参し家康から叱責を受けた秀忠は、その屈辱を忘れない。信之への風当たりは強くなった。
 信之が敵である幸村と京の小野のお通邸で密会した事実をネタに、信之の側近に送り込んだ隠密の馬場彦四郎をつかい、秀忠は真田家取り潰しを謀る……。

 草の者のただ一人の生き残りお江が信之に仕え、お家の危機に立ち向かう。

目次:第12巻雲の峰
・戦後
・上田城にて
・雲の峰
・笹井丹之助
・対決
・遺品
・告白
・時勢
・初雪
・別れゆくとき

×  ×  ×

 側近だった馬場彦四郎が実は徳川の隠密だった。信之が小川治郎右衛門をつかい、馬場を罠にかける陰謀が、手がこんでいる。

 池波さんの「後書」にあるが、信之は93歳の長寿を全うする。そのとき徳川家は家康、秀忠、家光、4代家綱の時代になっていたのです。戦国武将としては真田幸村の人気が根強いけど、池波さんは信之の生き方により魅力を感じていたようですね。

 全12巻通じて幸村の信之評がよく出てきます。
「兄上は天下を治める器量を持っておられる」
「あのようなひとは、めったに、この世に生まれるものではない」
 父の昌幸や徳川秀忠と比較して「父上など足許に寄れぬ」「秀忠など足許に寄れぬ」と人物を評価している。

 8月中旬から読み出した「真田太平記」を3カ月かけて読了しました。心地よい読後感です。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」の3大シリーズに伍す池波作品です。嶋津義忠の「真田疾風録 信之と幸村」(PHP文庫)がきっかけで「真田太平記」に挑戦したわけですが、戦国モノをこれからも読んでみたいですな。
2010年11月11日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月9日火曜日

池波正太郎「真田太平記(十一)」

幸村と信之が小野のお通邸で対面
 池波正太郎の「真田太平記(十一)大坂夏の陣」(新潮文庫)を読む。
















★いいね!ボタン
ご協力ください。

</font></span><span style=        
にほんブログ村            
    
</font></span><span style=            
人気ブログランキング                                      


大坂冬の陣の和睦がなると、徳川家康によって大坂城の濠は埋め尽くされた。堅固な城が無防備な裸城となった。牢人を抱える豊臣家の動きが不穏と、家康は再び戦に持ち込む。夏の陣である。
 決戦を前に家康は真田幸村を味方にしようと、信之に交渉を促す。信之と幸村は京の小野のお通邸で対面するが、幸村の「家康の御首(みしるし)を盗る」決意は揺るがない。
 幸村は死を覚悟し戦に臨む。家康の陣営深く切り込むが、家康を討つことを果たせなかった。激戦に満身創痍の幸村は死に場所を求め彷徨(さまよ)い、向井佐平次の遺体と出くわす。佐平次を抱きながら、幸村は息絶えるのだった。

目次:第11巻大坂夏の陣
・兄弟
・恋
・婚礼
・大坂夏の陣
・血戦
・落城

×  ×  ×

 信之が恋心を抱く小野のお通は、詩歌、書画、琴と万芸に秀で、秀吉、家康そして朝廷とも交わりがあった謎の才女として描かれています。
 第12巻:雲の峰の冒頭で、幸村の遺髪を、鈴木右近を通じて信之に届けさせています。
 遺髪はどのようして手に入れたものなのでしょうか。隠然たる力のあるお通だけに可能だったのでしょうか。最後の巻を興味深く読み進みたいと思います。
2010年11月8日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月4日木曜日

伝説のアンダースロー安藤元博

早慶6連戦の連投を記憶に留めたい
 2010年の六大学野球秋季リーグ戦は、早慶での優勝決定戦にもつれ、早稲田が斎藤佑樹の好投で優勝を飾った。早慶戦の優勝決定戦は1960年(昭和35年)以来50年ぶりだった。

×  ×  ×

 13歳の野球少年だった。スポーツ新聞好き。朝、新聞は野球欄から読むことが日常だった。あのときの野球記事、いやスポーツ欄は、あの男でもちきりだった。
 伝説のアンダースロー安藤元博である。  ※敬称略

 昭和35年・1960年は早慶6連戦の年だった。
 いろいろな出来事があった。
 日米安全保障条約の締結、安保反対デモ、岸信介内閣の退陣、池田隼人の総理就任、右翼少年山口二矢による社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件、そして石原裕次郎と北原三枝の結婚……。

 ♪アカシアの雨に打たれて
  このまま死んでしまいたい
 ビブラートを効かせない乾いた西田佐知子の歌声が巷に流れていた。60年安保の象徴的な曲といわれた「アカシアの雨がやむとき」(作詞・水木かおる:作曲・藤原秀行)だ。

 それでも草野球音の一番は早慶6連戦の安藤元博だった。

早慶6連戦
 早稲田の監督は石井連蔵、慶応は前田祐吉だった。早稲田のエースは安藤元博(東映)、バッテリーを組む捕手は野村徹、打の中心は徳武定之(国鉄)。慶応の投は左腕の清沢忠彦と角谷隆、捕手は大橋勲(巨人)、打線には榎本博明、安藤統男(阪神)、渡海昇二(巨人)と実力者揃いだった。

・第1戦:11月6日神宮
早稲田000 001 100=2
慶 応000 000 001=1
勝利投手・安藤元―野村 敗戦投手・清沢、角谷、丹羽―大橋

・第2戦:11月7日神宮
慶 応120 000 001=4
早稲田001 000 000=1
勝利投手・角谷―大橋 敗戦投手・金沢―野村

・第3戦:11月8日神宮
早稲田100 000 011=3
慶 応000 000 000=0
勝率投手・安藤元―野村 敗戦投手・清沢、丹羽―大橋

・優勝決定戦:11月9日神宮
早稲田000 000 001 00=1
慶 応010 000 000 00=1
W安藤元―野村 K角谷―大橋

・優勝決定戦再試合:11月11日神宮
早稲田000 000 000 00=0
慶 応000 000 000 00=0
W安藤元―野村 K角谷、清沢―大橋

・優勝決定戦再々試合:11月12日神宮
早稲田020 010 000=3
慶 応 000 010 000=0
勝利投手・安藤元―野村 敗戦投手・角谷、清沢、三浦、丹羽―大橋

 安藤元博は6連戦中5試合に完投、第3戦からは4戦連続の完投で実に49イニング、564球を投げ抜いた。
 わずか1週間で5完投、49イニングで3失点という離れ業を演じた。脅威のスタミナ、見事な精神力といえる。

 1962年に東映に入団。新人で13勝8敗、防御率2.32、同じ新人の尾崎行雄ともにリーグ優勝に貢献し、阪神との日本シリーズでも2勝を稼ぐ活躍を見せた。その後はパッとせず、1965年の巨人を最後に現役引退した。プロ通算成績は17勝16敗だった。

 1996年、56歳の若さで亡くなっている。

×  ×  ×

 お腹のあたりでグラブと右手を抱え込んでタメを作る投球フォーム。あのアンダースローが瞼に焼きついている。
 斎藤佑樹から安藤元博に想いを馳せた。

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。

2010年11月3日水曜日

池波正太郎「真田太平記(十)」

真田丸に拠って徳川勢を打ちのめす
 池波正太郎の「真田太平記(十)大坂入城」(新潮文庫)を読む。















★いいね!ボタン  
ご協力ください。  

</font></span><span style=        
にほんブログ村            
    
</font></span><span style=            
人気ブログランキング                                      


 方広寺の鐘銘に難癖をつけ、徳川家康は豊臣家を開戦に追い込む。真田幸村は九度山を密かにに脱出し、大坂城に入城し、外堀の外に真田丸を築く。
 開戦当初から豊臣家の重臣たちは和平工作を画策する。幸村は真田丸に拠って徳川勢を打ちのめす。幸村の勇名が轟く。が、決戦は本格化せず、和睦し大坂冬の陣は終息する。

目次:第10巻大坂入城
・且元退去
・大坂入城
・大坂冬の陣
・真田丸

×  ×  ×

 真田幸村が戦に臨む兵士に酒と餅を与え、「この人のためならば、いつ、死んでもよい」と心服させる場面がある。池波さんの戦争体験からの言葉で重みがある。

―太平洋戦争中に、筆者は海軍にいたが、
 (この人と、いっしょならば、よろこんで死ねる)
 とおもった上官は二人しかいなかった。

  兵は、直属の上官しだいなのだ。
 直属の上官が愚劣な場合は、
 (よろこんで死ねない……)
 ものなのである。

 幸村の戦将としての器の大きさを描いているが、池波さん自身もかくありたいと実践していたんじゃないかなぁ。
2010年11月3日読了

人気ブログランキングへ※「草野球音備忘録」はランキング参加中です。投票(クリック)にご協力ください。
にほんブログ村 シニア日記ブログ 団塊の世代へ※こちらも、よろしければクリックしてください。