2011年6月28日火曜日

決裂!秀吉VS利休:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第24回=利休切腹)

私があなた様の茶頭になったのは、あなた様がおもしろいお方だったからです。
でも、今はちーともおもしろくありゃしません。
あなた様のために茶を点てるのが嫌になりましたのや。
 利休(石坂浩二)は、茶頭として留まるように頭を下げて頼む秀吉(岸谷五朗)の申し出を拒絶した。
 怒った秀吉は「そちの望み通りいたそう。切腹じゃぁ!」と、利休に切腹を申しつけた。

×  ×  ×

 千利休は天正19年(1591年)2月28日に秀吉の命を受け切腹した。
 その日は朝から雷が鳴り荒れた天候だった。「利休七哲」のうち古田織部や細川忠興らが奔走したが、助命は叶わなかった。享年70歳。
 死罪の理由としては、
・大徳寺山門に利休像を設置したこと
・安い茶器を高額に売りさばき私腹を肥やしたこと
などがあげられています。

 ドラマででは、石田三成(萩原聖人)が大名に発言力を持つ利休を警戒して秀吉に上記の2点を訴えていました。

 天下人となり自己肥大した秀吉に、利休は己の美学を貫いたのでしょうか。

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2011年6月26日日曜日

藤沢周平「小川の辺」

トリアタマを叩きながら再読
 人間は忘れる動物である。度忘れが高じれば認知症となる。藤沢周平さん原作の「小川の辺」が東山紀之主演で映画化された。読んだはずだが、思い出せない。「小川の辺」を読んだのは2008年。はて、どんな筋か……。短編集「闇の穴」(新潮文庫)に収められている。「小川の辺」」を再読する。

×  ×  ×

 海坂藩藩士の戌井朔之助は月番家老の助川権之丞から上意討ちの命を受けた。相手は佐久間森衛で、妹・田鶴の夫だった。佐久間は藩主・主殿頭(とのものかみ)にあてに農政改革の上書を提出したが、それが主君の自尊心を甚だしく損ねた。謹慎処分が下ったが、佐久間と田鶴は主命に背き脱藩し江戸に逃げたのだった。
 田鶴は朔之助と修業した直心流の遣い手で、気性が激しい女だった。
 戌井家の若党の新蔵が朔之助の江戸行きに同行を申し出た。田鶴は兄の朔之助の言うことは聞かぬが、幼なじみの新蔵の言うことは聞くのだった。
 朔之助は新蔵の同行を許し、江戸へ向かった。

×  ×  ×

映画キャスト
・戌井朔之助:東山紀之
・田鶴:菊地凜子
・新蔵:勝地涼
・佐久間森衛:片岡愛之助

 映画と原作はもちろん別物でしょうね。ドラマとして味付け・演出が加味されていることでしょうね。
 縦社会の封建制度では、主君の命令は絶対服従です。理不尽な命でも黙って従わなくていけません。義弟を討つ朔之助の心情も辛かろう。ストイックさが漂う東山の朔之助役はぴったりでしょうね。

 それにしても、読んでもなかなか思い出せなかった。老化現象だろうか。
「トリアタマ」。ニワトリは3歩歩くと忘れてしまうとか。度忘れのひどい人を隠語で「トリアタマ」というそうな。もしや、トリなんとか……か。
2011年6月26日再読

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2011年6月24日金曜日

漱石と文人たちの書画展:神奈川文学館

余技を超えた書や絵画が遺っていました。夏目漱石、高浜虚子、武者小路実篤、中川一政ら館蔵コレクションによる「漱石と文人たちの書画」展(2011年6月11日~7月31日)が、横浜・山手の県立神奈川近代文学館で開催されている。


構成
・硯友社の人びと
・漱石とその周辺
・白樺派の人びと

同時開催
・常設展「文学の森へ 神奈川と作家たち 第3部 太宰治、三島由紀夫から現代まで」

*夏目漱石
 1905年(明治38年)、37歳で最初の小説「吾輩は猫である」の連載を始め、文名を高めた。1907年、大学教師から職業作家に転じ、間もなく東京・早稲田南町の家に移る。「心」など代表作をこの「漱石山房」で執筆した。「明暗」連載中の1916年(大正5年)、持病の胃潰瘍が悪化、漱石山房で息を引き取った。
 週1回の木曜日、知人・門下生が集まり歓談した。「木曜会」の名がついた。
 館内には書斎である「漱石山房」の一部が再現されている。

*硯友社
 1885年(明治18年)に尾崎紅葉、石橋思案らが創立した近代日本最初の文学結社。

*白樺派
 1910年(明治43年)4月に創刊された同人誌「白樺」を中心としてらに起った文芸思潮。武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、里見弴らはいずれも上流富裕層の若者で、その出自に由来する強い自我意識と個性尊重の自由な雰囲気によって文壇に新風を吹き込んだ。

目を惹いた作品
・夏目漱石画「あかざと黒猫」
・夏目漱石書「夜静庭寒」
・武者小路実篤画「生れけり死ぬる迄は生きる也」
・志賀直哉書「徳不弧」
・中川一政書「虚実戦ひて風韻を生ず」

×  ×  ×

 一芸に秀でたご仁は多芸なのですな。無芸で無駄に馬齢を重ねる身をかえりみて、情けなくなります。
2011年6月23日観覧

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2011年6月21日火曜日

緊迫!秀吉VS利休:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第23回=人質秀忠)
利休:茶頭を辞めさせていただきたいと思います。
秀吉:茶頭は死ぬまで茶を点(た)てるのじゃ。
利休:そなら、もう死にますかな。それとも殿下に殺していただきますかな。
 千利休(石坂浩二)が秀吉(岸谷五朗)に向い鋭い視線を投げた。

 天正18年(1590年)7月、小田原城陥落。北条氏が降伏し、豊臣秀吉は実質上の天下を治めた。陣営での勝利の茶会。利休は秀吉が嫌いな黒茶碗を出し、勘気に触れる。さらに、茶頭の座から降りたいと切り出した。
 天下人となり得意満面の秀吉であったが、利休だけは従わなかった。

×  ×  ×

*石垣山一夜城
 天正18年、小田原城を包囲した秀吉は、小田原城の西3kmの笠懸山の山頂に城を築いた。北条側から見えないように80日で建てた城。完成後に周囲の木を伐採したため、小田原城の北条氏からは一夜にして城を築いたように見え、戦闘意欲が失せたという。

×  ×  ×

 盛りだくさんの内容でした。
・家康に嫁がされた秀吉の妹・旭の死
・竹千代が元服し「秀忠」に
・石垣山一夜城・北条家の降伏
 ですが、秀吉と利休の関係は緊迫してきました。石田三成が利休排除の動きを強くしています。秀吉の家臣に影響力を持つ利休を脅威に感じています。
 また、淀に子(鶴松)を出産後、自らの高齢もあり、秀吉の猜疑心が強くなりだしたようです。

 石坂浩二の利休が秀吉に「殿下に殺していただきますかな」という台詞を吐きましたが、その表情に凄みがありましたぞ。

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2011年6月19日日曜日

蕗谷虹児展:そごう美術館

そこは、大正から昭和初期にかけて少女雑誌の挿絵で一世風靡した画家・蕗谷虹児(ふきや・こうじ)の世界だった。

「魅惑のモダニスト 蕗谷虹児展」(2011年6月11日~7月18日)が、横浜駅東口・そごう美術館で開催されている。初期から晩年まで彼の画業、足跡を、600点を超える原画や資料でたどる展覧会。

*蕗谷虹児(1898年―1979年)
 明治31年新潟・新発田生まれ。14歳で日本画家をめざし上京。1920年(大正9年)、竹久夢二の紹介で「少女画報」で挿絵画家としてデビューした。翌年「紅児」から「虹児」に改名。1922年に朝日新聞で吉屋信子の連載小説の挿絵に起用され、全国的に名を知られるようになる。
 1925年に挿絵にあきたらず渡仏しパリ留学。フランス画壇で活躍中の藤田嗣治や東郷青児らと親交を深める。春秋のサロンで毎回入選を果たすようになったが、1929年(昭和4年)東京の留守宅の経済破綻により急遽帰国。「令女界」「少女画報」や婦人誌、少年誌、文芸誌に挿絵画家として活動し、人気の絶頂を迎える。
 1935年(昭和10年)詩画集「花嫁人形」を出版。やがて戦時色は強くなり、蕗谷虹児の絵は時勢に合わず、製作を中止する。
 戦後は童話や絵本、東映動画の設立に参加。晩年は個展を中心に作品を発表。1979年(昭和54年)急性心不全で没した。

目を惹いた作品
・パリ時代に描かれたチラシ表紙に使用されている「柘榴を持つ女」(1927年)
・睡蓮の夢(1924年)
・関東大震災後の一連の被災者を描いた作品

×  ×  ×

 不明で恥ずかしいばかりだが、本展で初めて知った。蕗谷虹児は童謡「花嫁人形」の作詞者だった。作曲は杉山長谷夫。
 ♪金らんどんすの 帯しめながら
  花嫁御寮は なぜ泣くのだろう 
2011年6月18日観覧

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2011年6月17日金曜日

特別展「ワーグマンが見た海」

神奈川県立歴史博物館で開催
 幕末明治の日本の姿を世界に伝えた英国人報道画家、チャールズ・ワーグマンが来日して今年2011年が150周年にあたり、特別展「ワーグマンの見た海―洋の東西を結んだ画家―」(2011年6月11日~7月31日)が、横浜・馬車道の神奈川歴史博物館で開催されている。政治動向や風俗を描いた約250点のワーグマン作品、彼の弟子たちの作品、関連資料などを展示している。

*チャールズ・ワーグマンChares Wirgman(1832年―1891年)
ロンドン生まれ。1857年「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の報道画家としてアロー戦争を取材のため広東に特派。1861年(文久元年)に開港間もない日本(長崎)に到着し、その後イギリス公使オールコックの一行にともに江戸に。7月(文久元年5月28日)にイギリス公使館のある高輪の東禅寺で攘夷派の水戸藩浪士の襲撃を受けるが、その模様を文章とスケッチで本国に伝えている。
 1862年に居留外国人向けの雑誌「ジャパン・パンチ」創刊。1863年に日本人の小沢カネと結婚。五姓田義松、高橋由一らに西洋絵画の技術を教えた。日本の絵画に大きな影響を与えた。また「ジャパン・パンチ」の風刺画から「ポンチ絵」が生まれ、マンガのタネをまいた。
 2度ほど離日したが、以後30年間日本で暮らす。1891年に横浜で死去、外人墓地に眠る。

展示構成
・Ⅰ航海The Voyage
・Ⅱ港ヨコハマThe Port of YOKOHAMA
・Ⅲ海を超えた技術、海を超えた弟子たちWirgman’s Techniques Pupils

×  ×  ×

 来日の年に東禅寺事件、翌年に生麦事件が起き、在留外国人には恐怖の異国と日本は映っていたのではないだろうか。物騒な世情のなか、ワーグマンは生麦事件後に起った薩英戦争にも随行して記事を書いています。なかなかの性根の据わったご仁ですな。
2011年6月16日観覧

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2011年6月16日木曜日

真保裕一「最愛」

音信不通の姉が銃弾を受け意識不明に
 真保裕一の「最愛」(文春文庫)を読む。

 小児科医の押村悟郎のもとに、18年間音信不通の姉・千賀子が事件に巻き込まれ銃弾を受け、意識不明の重体だという知らせが警察から入った。千賀子は事件前日、婚姻届を出していた。相手の男は伊吹正典といい、28歳のとき妻を殺して服役した過去を持つ。彼はなぜか行方をくらませている。
 押村が4歳の夏、両親が交通事故死したため、押村は伯父に千賀子は伯母に引き取られ、別々に姉弟は育った。
 姉はいったい、なにをしていたのか。押村は18年間の空白を追う……。

×  ×  ×

 押村悟郎の務めている病院の事務長代理で、お互い好意を寄せている女性・二宮真尋が、「どうして小児科医になろうと決めたの」と尋ねると、
押村は、「ある女性との間にできた子供を、この世に迎えてやることができなかった。その償いとして、子供の命のために力をつくす仕事をしたいと考えた。恥ずかしい話だけどね」とこたえる場面がある。

×  ×  ×

 押村が8枚の年賀状をたよりに千賀子の足跡を聴いて回るうち、千賀子の強靭な精神と強い正義感が浮き彫りになる。そして18年間の生活ぶりが……。
 恋愛ミステリー小説とでもいうのでしょうか。
2011年6月15日読了

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2011年6月14日火曜日

茶々から宮沢りえ・淀へ:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第22回=父母の肖像)

父・浅井長政と母・市の菩提をともらう
追善供養をいたしとうございます。
 宮沢りえの茶々が秀吉(岸谷五朗)に、男の子誕生のあかつきには叶えてほしいといっていた願いを初めて口にした。
 天正17年(1589年)正月。秀吉は淀に地に築城を決めた。完成した城を茶々に与えられ、茶々は「淀」と呼ばれるようになった。淀は男の子を出産した。秀吉は待望の男児を鶴松と名づけた。そして、淀は鶴松を産む前に交わした願いを申し出るのだった。

 天下統一をめざす秀吉が小田原の北条攻めを決意する。

×  ×  ×

*小田原の役
天正17年、北条の猪俣邦憲が真田昌幸の家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪ったことから、天正18年に秀吉は関東に出兵し、小田原城を包囲した。
 3カ月の籠城後、北条氏政、氏直父子は降伏した。名実ともに秀吉の天下が成った。

×  ×  ×

 浅井長政(時任三郎)と市(鈴木保奈美)の肖像画が出来上がりました。江(上野樹里)は初めて父の顔を知ることになるわけですが、この肖像画、時任三郎と鈴木保奈美にそっくりでしたね(笑)。
 家康の三男・竹千代の向井理が初登場しました。後に江と結婚する徳川二代将軍の秀忠です。

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2011年6月9日木曜日

大竹しのぶ・北政所VS宮沢りえ・茶々:「江」

大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(第21回=豊臣の妻)
茶々殿は秀吉の側室ではありません。
すでに、秀吉の妻。
豊臣の家を守るのが私。
豊臣の子を産み、育てるのが茶々殿。
役目の異なる妻と心得られませ。
同じ妻として、これからはよろしゅう頼みまする。
 茶々(宮沢りえ)の懐妊を知った北政所(大竹しのぶ)は、茶々のもとを訪ね心のうちを語った。

 天正16年(1588年)秋。秀吉(岸谷五朗)と茶々は結ばれ、茶々は子を宿した。正室の北政所も穏やかならざる事態となったが、茶々に側室でなく「豊臣の妻」として認めることを告げるのだった。

×  ×  ×

 北政所は、「2人の妻」システムで豊臣家を支えようという提案しました。つまり側室ではなく、茶々は別格として扱うということなんですな。正室でありながら、子宝に恵まれない北政所としては後継者を産んでくれる茶々へ敬意を示したカタチですね。いわば「大連立構想」ですな。

 北政所と淀(茶々)の関係って、実際のところはどうだったのでしょうか。対立していた説もありますが、また協調協力関係にあったという説もあります。

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2011年6月7日火曜日

堂場瞬一「相剋」

元プロ野球選手の醍醐が相棒
 堂場瞬一の「相剋」(中公文庫)を読む。警視庁失踪課・高城賢吾シリーズ第2弾。

「杉並事件」という通り魔事件の目撃情報を警察に提供した人物が行方不明となった。目撃者探しを、捜査一課管理官の長岡が失踪課に依頼してきた。筋違いだと高城賢吾は主張したが、室長の阿比留真弓は明神と法月に捜査を命じた。ときを同じくして、男子中学生が友人の女の子が失踪した失踪課を訪れる。親族以外の捜索願は受けないが、少女の家族の対応に不審感を抱いた高城は、醍醐と捜査を始めた……。
 高城は酒びたりの上、ヘビースモーカーで頭痛持ち。ひとり娘の綾奈(当時7歳)が学校帰りに失踪してしまい、以来弁護士の妻との溝ができ、離婚した過去を持つ。今回の相棒の醍醐塁は元プロ野球選手。1年で肩を痛め引退した。ともに挫折感のあるふたりが事件にあたる。

×  ×  ×

「相剋」では、明神愛実の出番は少ないので、多少『女っ気』が足りない感じですな。
2011年6月5日読了

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2011年6月2日木曜日

百花繚乱―桜・牡丹・菊・椿―展:山種美術館

四季折々の花が咲き誇っていた――東京・広尾の山種美術館で「百花繚乱―桜・牡丹・菊・椿―」展(2011年4月27日~6月5日)を観る。花を描いた絵画を所蔵のコレクションの中から、酒井抱一ら江戸後期から上村松篁ら現代まで、約50点の作品が展示されている。


目を惹いた作品
・「醍醐」奥村土牛1972年
山種所蔵の名品。醍醐寺三宝院の枝垂れ桜を描いている。淡い桜。小林古径の法要の帰りに観た桜に感動した土牛(1889年―1990年)が、10年の歳月をかけ完成させたと説明にあった。歴史好きには、豊臣秀吉の「醍醐の花見」が思い出される。秀頼、北政所、淀らと催した盛大な宴。秀吉の最後の花見となった。土牛って101歳の長寿を全うしたのですね。

・「憶昔」小倉遊亀1968年
九谷焼の徳利に山吹の花。山吹の黄色が凛と咲いていました。小倉遊亀(1895年―2000年)。

・「百花」田能村直入
春夏秋冬の花を100種類描いている。まさに百花繚乱の趣きでした。田能村直入(1814年―1907年)。

・牡丹花(墨牡丹)速水御舟1934年
御舟(1894年―1935年)の最晩年の作。黒い牡丹を墨の濃淡のよって描いている。金色の花芯が花に生命を吹き込んでいました。
2011年5月31日観覧

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