2007年10月20日土曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅲ

 東京球場――永田雅一にとってそれはまさに「フィールド・オブ・ドリームス」(夢の球場)であった。

 東京球場は1961年(昭和36)7月着工した。当時、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、大毎オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としており、同一球場で違うカードを開催する変則ダブルヘッダー実施を余儀なくされるほど過密日程が常態化していた。後楽園球場では人気のある読売が観客動員を見込めるため夜のゲームに開催し、大毎などが昼から薄暮にかけてのゲームに回っていた。真打ジャイアンツの前座扱いであり、「自前の球場をもちたい」との永田の思いがあった。

 その時すでに本業の映画産業にも翳りが見えていた。

 東京都荒川区南千住には、戦前には千住製絨所があり、戦後には民間払い下げになり大和毛織の生地工場があった。1950年代に入り業績悪化と工業用水不足、労使間争議などで1960年に閉鎖されることになった。都内数箇所を球場用地として自ら視察した永田は、工場閉鎖という絶好のタイミングに私財を投げうって球場建設をこの地に決めている。総工費は28億円といわれた。

 球場候補地のなかには、現在プリンスホテルが建っている東京・芝の土地を使ってどうか、と西武グループの総帥・堤康次郎から進められたが、永田は断っている。西武の経営、資本参加・介入などを嫌い、「自前」に拘ったようだ。南千住の球場は観客動員数に伸び悩み手放すことになるわけだが、交通便のよい芝に東京球場が建っていたら、わずか11年で常設球場としての役目を終えることはなかったかもしれない。今となっては詮無い想像であろう。
 竣工は1962年5月31日、1年足らずで築き上げた。6月2日にはパリーグ全6球団が集結し、お披露目が行われた。3万5000人とスタンドを埋め尽くした満員の観客に向かい、永田は例の低いドスの効いた声で絶叫した。 高らかに「永田ラッパ」が東京球場に吹き鳴らされた。
 「みなさん、どうぞパリーグを愛してやってください」
 米大リーグの球場のような先端設備を有しながら庶民が気軽に「下駄履き」で通える球場がほしい、という永田の願いが叶った。
 
 米サンフランシスコのキャンドルスティック・パークを模し、6基の照明塔がグランドの選手を照らし出した。照明塔は2本のポール型の鉄塔で照明を支えたモダンなスタイルだった。外野ばかりか内野のダイヤモンド部分も日本の常設球場で初めて天然芝が植えられていた(後に手入れの煩雑さや経費面からクレー舗装になった)。ゆったりした座席。スタンド下に選手用設備があった。屋内ブルペンは幅6メートルで2人が投げられた。ダッグアウト裏にはトレーナー室、医療室、その奥には広いロッカールームがあった。これまでの隣の選手と身体が触れ合うように着替えていた姿が一変し、ゆったりと自分の空間を得られた選手には大好評であった。
 左翼スタンドから三遊間後方の地下にはボーリング場が併設され、シーズンオフには内外野の椅子席の上にはスケートリンクを設置できるようになっていた。
 両翼は90メートル、中堅120メートル。左中間と右中間は直線的でふくらみがなった。「ホームラン量産球場」といわれる所以で、当時最先端設備の球場の数少ない欠点であった。しかし、数々の先駆的な設計手法は今後の球場作りに大きな影響を与えたのだった。

 東京球場が開設された1962年、大毎オリオンズの観客動員数は736,300人と、前年の610,250人を2割強上回った。(つづく)

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