2007年10月23日火曜日

ラッパが聞こえる東京球場Ⅴ

 オリオンズ球団を引き受けた株式会社ロッテの社長、在日韓国人1世の重光武雄(本名・辛格浩)は球団オーナーとして表舞台に出ることを嫌い、岸信介に永田の後任オーナーを一任した。岸が指名したのが、岸の秘書官を務め片腕として働いた中村長芳だった。
 中村は10月18日に郷里の山口市で逝去した。
 2年間ロッテのオーナーを務めるわけだが、中村は岸の女婿(長女・洋子と結婚、その次男が前総理大臣の安倍晋三)である安倍晋太郎とは山口県立山口中学(県立山口高校)の同期生という因縁だった。

 1972年(昭和47)、永田は断腸の思いで東京球場まで手放すこと決意した。深交がある、政財界に顔が効くフィクサー児玉誉士夫に買い手探しを依頼、結果、児玉は国際興業社主の小佐野賢治(「ロッキード事件」がらみでと互いに被告となった)を選んだ。小佐野は戦後ホテル事業に手をつけ東京急行電鉄の創業者、五島慶太の知遇を得て、1947年国際興業を創設した。1950年には田中角栄が社長を務める長岡鉄道(後の越後交通)のバス部門拡充に協力したことから親交が始まり、「刎頚の友」といわれる関係になった。

 東京球場の大家は小佐野であり、店子は中村となった。小佐野の友は田中角栄で、中村の師は岸であり、友は安倍晋太郎だった。岸は首相を退いた後も政界に隠然たる勢力を示していた。岸の後釜は福田赳夫である。福田派の中核を成し、福田の後継と目されるのが安倍であった。
 当時政界では激しい権力抗争「角福戦争」が勃発しており、東京球場はその代理戦争の様相を呈していた。球場賃貸を巡り暗雲が立ち込めていた。

 永田は1971年球団の経営権をロッテに譲り、東京球場を国際興業に手放したのが1972年のことだが、東京球場譲渡の前に、パリーグでは極秘裏に西鉄ライオンズの身売り話が進められていた。
 1972年シーズン当初のオーナー会議で、西鉄本社の木本正敬社長は「西鉄は今季限りで球団経営から撤退したい。みなさまの協力を得て譲渡先を見つけてもらいたい」と切り出した。会議は騒然となったが、永田からロッテのオーナー職を受け継いだ中村が政財界の岸コネクションを利かせ西鉄の売却相手を探すことを全面的に託された。

 西鉄は1956年(昭和31)年から3年連続日本一に輝いている。監督に三原脩、主砲に中西太、豊田泰光、鉄腕・稲尾和久を擁した強豪だった。1963年にも南海に14ゲーム差離されながら稲尾らの奮闘で大逆転のリーグ制覇をしている。
 プロ野球を震撼させる「黒い霧事件」が起こったのは1969年だった。同年10月に西鉄の永易将之が暴力団関係者に敗退行為(八百長)を持ちかけられ実施したのが発端で、次々に敗退行為者が発覚していった。西鉄ではエースの池永正明、与田順欣、益田昭雄、中日の小川健太郎、東映・森安敏明らが永久出場停止処分(永久追放)となっている。
 池永の永久追放、主力打者の期限付きの出場停止、事件を因とした退団により、西鉄は戦力を大幅に失った。
 事件発覚の1969年は5位に終わり、1970年から3年連続で最下位と低迷した。そればかりか、この忌まわしい事件をきっかけに観客の足も遠のいた。平和台球場に閑古鳥が鳴いた。
 親会社から見れば球団は宣伝媒体で許容範囲の額なら赤字もやむを得ないとする本社社長もいることはいる。しかし、八百長球団という汚名は最悪といっていい。経理部門出身の木本は早く球団を手放したいと判断したようだ。(つづく)

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