2008年1月10日木曜日

瞼の裏で咲いている1960

昭和35年編

 1960年・昭和35年の歌謡曲編は「アカシアの雨のやむとき」(2007年11月21日)の項で粗方(あらかた)書いたので、ここではスポーツ編を中心に書きたい。「アカシアの雨のやむとき」を読んでいただけるとありがたい。

 安保闘争の空前のデモ、岸信介から池田勇人への首相交代、浅沼稲次郎の刺殺事件など政治的に大きな動きのあった昭和35年であった。
 ダッコちゃんブームが起こった年でもある。
 
 スポーツでは早慶6連戦が印象深い。早慶戦が行われた1週間は新聞のスポーツ欄を読むのが楽しみだった。朝が待ち遠しかった。不思議とテレビ中継を観た記憶がないのだ。安藤元博(1939年―1996年)の名を記憶に刻んだ。

 同年の六大学野球秋季リーグ戦は、最終週の早慶戦を前にして順位は、
1・慶大 8勝2敗 勝ち点4
2・早大 7勝3敗 勝ち点3
であった。
 慶応大は早稲田大から勝ち点(2勝)をあげれば優勝、早稲田大が優勝するには連勝するか、2勝1敗で同勝ち点・同勝率とし優勝決定戦に持ち込みさらに勝つことが条件であった。状況は早稲田不利であった。

 早慶戦が始まった。当時の慶応大には清沢忠彦、角谷隆、丹羽弘の投、打に榎本博明、安藤統夫(阪神)、大橋勲(巨人)、渡海昇ニ(巨人)がいた。一方の早稲田大には安藤元博(東映)、金沢宏のサブマリン2枚に打の野村徹、徳武定之(国鉄)がいた。率いるは早稲田大は石井連蔵、慶応大は前田祐吉だった。

六大学野球秋季リーグ戦
1回戦(11月6日=神宮球場)
早大 000 010 100=2
慶大 000 000 001=1
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)清沢、角谷、丹羽―大橋

2回戦(11月7日=神宮球場)
慶大 120 000 001=4
早大 001 000 000=1
 (慶大)三浦、角谷―大橋
 (早大)金沢―野村

3回戦(11月8日=神宮球場)
早大 100 000 011=3
慶大 000 000 000=0
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)清沢、丹羽―大橋
 早稲田大の2勝1敗で早慶ともに9勝4敗、勝ち点4と並んだため、両校による優勝決定戦となる。

優勝決定戦(11月9日=神宮球場)
早大 000 000 001 00=1
慶大 010 000 000 00=1
 延長11回日没引き分け(当時神宮球場にナイター設備はなかった)
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷―大橋

同・再試合(11月11日=神宮球場)
早大 000 000 000 00=0
慶大 000 000 000 00=0
 延長11回日没引き分け
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷、清沢―大橋

同・再々試合(11月12日=神宮球場)
早大 020 010 000=3
慶大 000 010 000=1
 (早大)安藤元―野村
 (慶大)角谷、清沢、三浦、丹羽―大橋

 かくして早稲田大が優勝決定戦再々試合の末、逆転優勝を果たした。スコアで一目瞭然で、優勝の要因は早稲田の安藤元博の獅子奮迅の活躍である。6連戦のうち5試合に先発完投をやってのけた。49イニング564球、まさに球史に残る熱投であった。日本シリーズでの昭和33年の稲尾和久(西鉄)、同・昭和34年の杉浦忠(南海)に伍す偉業だと思う。

 安藤元博は香川県丸亀出身。昭和32年夏の高校野球選手権大会に坂出商業のエースとして出場し、ベスト8に進出している。早稲田大に進み、六大学野球では通算35勝をあげた。昭和37年東映フライヤーズに入団し、新人ながら13勝を稼ぎリーグ優勝に貢献している。その後読売ジャイアンツでもプレーしている。
 草野球音が印象に残る安藤の投球内容は、
「ゆっくりしたワインドアップから頭から体を前方に倒し、下手からボールを繰り出す。 球威はないが丁寧にコーナーをつく技巧派」であった。

 高校野球は春の選抜大会が高松商(香川)が、夏の選手権大会は2年生エース柴田勲を擁した法政ニ(神奈川)が大旗を握った。

 プロ野球はセ・リーグが大洋ホエールズ、パ・リーグは大毎オリオンズが優勝し、日本シリーズは大方の予想を裏切って大洋が4連勝して日本一に輝いた。レギュラーシーズン、シリーズともに監督三原脩の采配が光った。敗将の西本幸雄はオーナーの永田雅一と采配を巡ってもめ監督を辞任した。シリーズMVPは大洋の近藤昭仁だった。

・昭和35年の主な個人タイトル=セ・パ
最優秀選手=秋山登(大洋)・山内和弘(大毎)
新人王=堀本律雄(巨人)・該当者なし
首位打者=長嶋茂雄(巨人)・榎本喜八(大毎)
本塁打王=藤本勝巳(阪神)・山内和弘(大毎)
打点王=藤本勝巳(阪神)・山内和弘(大毎)
最優秀防御率=秋山登(大洋)・小野正一(大毎)
最多勝=堀本律雄(巨人)・小野正一(大毎)
最優秀勝率=秋山登(大洋)・小野正一(大毎)

 ローマ五輪が開催された。日本は金メダル4個、銀7個、銅7個の計18個のメダルを獲得した。
 金メダルは男子体操の活躍によるものだった。小野喬が跳馬と鉄棒の種目別で2個、相原信行が徒手で1個、団体総合(相原信行・遠藤幸雄・小野喬・竹本正男・鶴見修治・三栗崇)で1個。
 銀メダルでは、三宅義信が重量挙げバンタム級で、水泳の山中毅が400M自由形で、大崎剛彦が200M平泳ぎで獲得したのが記憶に残る。田中聡子が100M背泳ぎで、田辺清がボクシングのフライ級で銅メダルを得ている。
 エチオピアのアベベが古都ローマを裸足で駆け抜け金メダルに輝いたマラソンは全世界的な話題となった。米国のカシアス・クレイ(後のモハメッド・アリ)がボクシングのヘビー級で金メダルを獲得したのもローマ大会であった。

 池波正太郎が「錯乱」で直木賞(上半期)を受賞した。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。

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