2008年2月11日月曜日

カツライスに職人シェフ

シリーズ映画Ⅲ
 味のよいカツライスを作ったのは職人シェフだった。

 カツライスとは「勝」新太郎(1931年―1997年)と市川「雷」蔵(1931年―1969年)のことで、大映の誇る2枚看板である。2007年10月14日の「大映はカツライスの味」(カテゴリー:映画の友)で前述しているので、参照していただければ幸いである。
 カツライスのシリーズ映画となると、勝は「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」、そして雷蔵は「眠狂四郎」「忍びの者」「若親分」「陸軍中野学校」ではないだろうか。
 
 シリーズ名と作品数(制作期間)=スタート時の監督を挙げると、
「座頭市」26作品(1962年~1989年)=三隅研次
「悪名」16作品(1961年~1974年)=田中徳三
「兵隊やくざ」9作品(1965年~1972年)=増村保造
「眠狂四郎」12作品(1963年から1969年)=田中徳三
「忍びの者」8作品(1962年~1966年)=山本薩夫
「若親分」7作品(1965年~1967年)=池広一夫
「陸軍中野学校」5作品(1966年~1968年)=増村保造
となっている。
 市川雷蔵は1969年(昭和44)に37歳で夭折しているので、作品数と期間は勝新太郎に比べ当然ながら少ない。

 「プログラムピクチャー」という言葉がある。請け売りで恐縮だが、「映画会社主導の商業主義を重視し、決められた予算・撮影期間(時には早撮りも要求される)で制作された映画」と定義される。チャンバラ、やくざ、コメディ、アクション、青春もの、歌謡ものなどがこの範疇に属する場合が多い。邦画全盛期を支えた貴重な映画作りの職人といえる。邦画衰退⇒テレビ隆盛となり、その職人芸は多くテレビドラマで生かすことになる。

 プログラムピクチャーの対極にあるのが「作家主義」で、黒澤明、小津安二郎、溝口健二らに代表される。

 上記の三隅研次(1921年―1975年)、田中徳三(1920年―2007年)、池広一夫の3監督は「大映三羽烏」といわれたプログラムピクチャーの旗手である。

 田中徳三は昨年12月20日に亡くなった。記憶に新しい訃報である。彼は関西学院大学を卒業後、1948年に大映入社した。「羅生門」(1950年・黒澤明監督)、「雨月物語」(1953年・溝口健二監督)、「山椒大夫」(1954年・溝口健二監督)、「炎上」(1958年・市川崑監督)の後世に残る作品で助監督を務めている。「羅生門」は1951年(昭和26)のベネチア映画祭グランプリ、「雨月物語」は1953年の同銀獅子賞に輝いている。
 「作家主義」の監督を支えながら成長し、1958年(昭和33)に独立した。映画監督デビューは「化け猫御用だ」(梅若正二出演)で50本の作品がある。プログラムピクチャーの監督らしく多作だ。

 「眠狂四郎」を市川雷蔵のあたり役にした功績は大きい。黒羽二重の着流し、無想正宗の円月殺法、転びバテレンの父を持つハーフ――柴田錬三郎(1917年―1978年)の原作を、銀幕に再現してみせた。映画化の企画と雷蔵主演を強く推し、第1作のメガホンを撮った。
「眠狂四郎殺法帖」(1963年)=シリーズ1作目
「眠狂四郎女地獄」(1968年)=シリーズ10作目

 勝新太郎の「悪名」の1作目(1961年)も田中徳三だ。白塗りの二枚目でパッとしない勝が脱皮を図ったのは1960年の「不知火検校」(森一生監督)だが、「売れる映画」を勝に初めて与えることになった。
「悪名」(1961年)
「続悪名」(1961年)
「続・新悪名」(1962年)
「第三の悪名」(1963年)
「悪名一番」(1963年)
「悪名幟」(1965年)
「悪名無敵」(1965年)
「悪名桜」(1966年)
 シリーズ16作の半数の8作を世に出している。原作は今東光(1898年―1977年)で、浅吉役の勝と、モートルの貞役の田宮二郎とのコンビは絶妙だった。「続悪名」でモートルの貞は死んだが、「続・新悪名」で貞の弟として田宮二郎(1935年―1978年)が復活した。

 田中徳三は、勝の「兵隊やくざ」は9作中6作、「座頭市」は3本、雷蔵の「忍びの者」1本、「陸軍中野学校」1本と、カツライス人気シリーズの21作品も監督している。
 「兵隊やくざ」の勝は破天荒な大宮貴三郎に、田村高廣(1928年―2006年)がインテリの有田上等兵に扮した。ふたりの息はぴったり合っていた。
「新座頭市」(1963年)
「座頭市兇状旅」(1963年)
「座頭市の歌が聞える」(1966年)
「続・兵隊やくざ」(1965年)
「新・兵隊やくざ」(1966年)
「兵隊やくざ大脱走」(1966年)
「兵隊やくざ俺にまかせろ」(1967年)
「兵隊やくざ殴りこみ」(1967年)
「兵隊やくざ強奪」(1968年)
「忍びの者霧隠才蔵」(1964年)
「陸軍中野学校竜三号指令」(1967年)

 三隅研次は勝の最大の当たり役「座頭市」第1作を撮ったことで知られる。「座頭市」6本、雷蔵の「眠狂四郎」3本のメガホンを握った。「座頭市」の原作は子母澤寛(1892年―1968年)
「座頭市物語」(1962年)
「座頭市血笑旅」(1964年)
「座頭市地獄旅」(1965年9
「座頭市血煙り街道」(1967年)
「座頭市喧嘩太鼓」(1968年)
「座頭市あばれ火祭り」(1970年)
「眠狂四郎勝負」(1964年)
「眠狂四郎炎情剣」(1965年)
「眠狂四郎無頼剣」(1966年)
 三隅研次は雷蔵主演の「剣」3部作といわれる「斬る」(1962年)、「剣」(1964年)、「剣鬼」(1965年)の監督でもある。

 池広一夫は「若親分」第1作を初めとして4本、「座頭市」3本、「眠狂四郎」4本、「忍びの者」2本を撮っている。
「座頭市千両首」(1964年)
「座頭市あばれ凧」(1964年)
「座頭市海を渡る」(1966年)
「眠狂四郎女妖剣」(1964年)
「眠狂四郎無頼控魔性の肌」(1967年)
「眠狂四郎悪女狩り」(1969年)
「眠狂四郎卍斬り」(1969年)
「忍びの者続・霧隠才蔵」(1964年)
「新書・忍びの者」(1966年)
「若親分」(1965年)
「若親分出獄」(1965年)
「若親分喧嘩状」(1966年)
「若親分千両肌」(1967年)

 大映三羽烏の他では、上記7シリーズに14作品の監督を務めた森一生(1911年―1989年)安田広義らも貢献している。三隅研次、田中徳三、池広一夫の3人が7シリーズ(総計83作品)の監督を務めた合計は36作品と全体の4割強を占める。こうしたプログラムピクチャーの監督なしには、カツライスのシリーズ映画が存在しなかったと思う。
 大映三羽烏は、気どった高級店にない気軽にお客さんに楽しんでもらうシェフだった。大衆好みのカツライスという料理に最良の味付けをした職人シェフであった。

※蜘蛛巣丸太「草野球音備忘録」では人物名の敬称を省略しています。文章中で「主」の記憶違い・事実誤認・赤字などがありましたら、ご指摘くだされば幸いです。また赤字などの訂正、文章表現などの加筆は随時行っています。

0 件のコメント: