2008年7月10日木曜日

堀達之助の英和辞書

 「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」が世に出たのは、黒船来航から9年後の1962年のことだった。日本で初めて本格的な英和辞書が出版された。編纂責任者は堀達之助(ほり・たつのすけ1823年―1894年)である。
 3万余語におよぶ語数を集め、英蘭辞書をもとに編まれている。袖珍とは、袖(そで)に入るくらい小型のもので、ポケット版の意味だ。徳川幕府洋書調所から刊行された。初版は200部印刷されたが、英語需要が高まり、好評で1866年、1867年、1869年に各1000部以上増刷された。その値段は当初1冊2両ほどだったが、後に「プレミア」つきで1冊20両にもなったという。

 “I can speak Dutch”
(拙者はオランダ語を話せる)
と黒船に向かって叫んだ堀達之助のことは、「泰平の眠りを覚ますⅡ」~黒船通詞・堀達之助~2008年5月25日に記し、何故英語でオランダ語を話せると言ったのか、「当時の堀は英語より蘭語、蘭学一般に通暁していたと推測される」と書いたが、外交的配慮であったという説を読んだので、補足しておく。
 英語で外交交渉をすれば、ネイティブの米国側に有利となり、第3の言語を使う必要があった。対等な立場で交渉を行うべく発した、堀の外交センスが生んだ第一声だったという。事実、交渉はオランダ語で行われた。
 提督マシュー・カルブレース・ペリー(1794年―1858年)の率いる軍艦にはポートマンというオランダ語通訳がいた。

 ちなみに日米和親条約の契約書は、英語、日本語のほかにオランダ語、中国語(漢文)の4カ国語が存在する。黒船の中国語通訳は、中国在住歴20年という宣教師のウィリアムズがいた。

 ペリー来航当時、日本で英語を最も理解し話したのは、中浜(ジョン)万次郎(なかはま・まじろう=1827年―1898年)であり、森山栄之助(もりやま・えいのすけ=1820年―1871年)であった。
 海で遭難し米捕鯨船に救助されアメリカにわたり、英語教育を受けたジョン万次郎を通訳に起用しようとの案もあったが、スパイではないにしろ長らくのアメリカ暮らしでアメリカ不利なことは避けるのではないか、という懸念があり、幕閣は通訳に踏み切れなかった。
 森山栄之助は長崎出身で、代々オランダ通詞の家系に生まれ、幼少からオランダ語に馴染み、漂着した米人ラナルド・マクドナルドからネイティブな英語を学んだ。ペリーも森山の存在を知っており、来航時の通訳は彼が務めると思っていた。ところが、同じ時期にロシア船が長崎に来航しており、その対応に追われ、黒船での通訳はできなかった。ペリーが二度目の来航した、翌1854年(嘉永7年)には(このとき日米和親条約は締結されたのだが)、通訳を務めている。父・源左衛門は通訳の最高位の大通詞だった。

 オランダ通詞の職制は大通詞、小通詞、稽古通詞に大別され、そのほかに私的通訳として内通詞がいた。

 堀達之助は、30歳で黒船来航に遭い、そのとき小通詞であった。

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