2008年7月17日木曜日

新聞の父:ジョセフ彦

浜田彦蔵(はまだ・ひこぞう)

 ジョセフ彦って知っていますか?

 ジョセフ彦(1837年―1897年)は、日本で初めて新聞を発行し「新聞の父」といわれる御仁です。

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 ざっと彼の略歴を紹介する。
 ジョセフ彦は、天保8年(1837年)8月21日、播磨国加古郡(現在の兵庫県播磨町)に漁師の子として生まれる。13歳のとき、海で遭難し約2ヶ月間の漂流の末、米商船オークランド号に救助され、1851年サンフランシスコに着く。1852年、米国政府はこの彦らを日本に送り返し、国交の糸口を掴もうと、ペリー艦隊にマカオで乗船させようとしたが、ペリーの入港が遅れてため、再びアメリカに渡る。
 サンフランシスコで着き、税関長サンダースの知遇を得て、教育を受ける。1854年キリスト教の洗礼を受け、1858年にはアメリカに帰化する。
1859年(安政6年)、21歳でタウンゼント・ハリス(1804年―1878年)に伴われ開国(1858年日米修好通商条約締結)したばかりの日本の地にやって来る。横浜の領事館通訳をしていたが、攘夷の動きが激しく身辺が危うくなり、1861年三度目の渡米。1862年には、米大統領リンカーンと接見する。1862年(文久2年)、南北戦争(1861年―1865年)の米国を後に三度目の帰国を果たす。1963年領事館通訳を辞し、横浜居留地で商売を始める

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 横浜で貿易商を始めたころ、「ニューヨークタイムズ」を目にしてジョセフ彦は、激しく心を揺さぶられた。アブラハム・リンカーンの名演説と、その反響ぶりを伝える記事だった。
 1863年11月19日、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで、リンカーンは後世に残る名言を残している“government of the people, by the people, for the people” (人民の、人民による、人民のための政治)――一瞬にして国民に知らしめた新聞という文明の利器の威力に感嘆したのだった。

 知る権利。日本の民衆にも世界の情勢を知らせたい、それには新聞発行が、という思いが広がった。開国間もない日本にその風土はなく、発行は困難を極めた。攘夷を唱える浪士から再び狙われことになった。
 それでもジョセフ彦は新聞作りに励み、ついに元治元年(1864年)6月28日、岸田吟香、本間潜蔵らの助けを得て、発行に漕ぎつけたのだった。手書き5部であった。翌年に木版印刷となり、初版から26号まで発行した。当時100部程度を刷っていた。慶応2年(1866年)の横浜大火で、居留地の4分の1が焼失し、絶版となった。新聞の内容は、海外情報、事件、貿易の状況、金や海外相場、居留地の商店の広告などを掲載した。
 横浜での本拠を失ったジョセフ彦は、商売の拠点を長崎に移した。木戸孝充、伊藤博文、坂本竜馬が訪れ、欧米の政治、経済など情報を入手している。また、英国商館と鍋島藩とを斡旋し、高島炭鉱の企業や、大阪造幣局作りに尽力している。

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 新聞発行をした場所は、横浜・居留地141番地で、現在は中華街となっており、「日本国新聞発行の地」の碑が建っている。
 ジョセフ彦は日本籍の復帰が叶わず、東京・青山の外国人墓地にある。明治30年(1897年)に永眠し、「浄世夫彦の墓」の下に眠る。

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