2008年9月13日土曜日

歴史を見た「たまくす」

横浜開港資料館にて

 ぶらり散歩に出る。
 横浜開港資料館(横浜・中区日本大通3=みなとみらい線「日本大通り」駅3番出口から徒歩2分)を見学する。旧館は1972年(昭和47年)まで英国総領事館だった。横浜指定文化財となっている。新館には横浜開港に関連した資料・地図・写真・かわら版などが展示されている。
 旧館と新館に囲まれた中庭に大木のタブノキがある。タブノキはクスノキ科の常緑高木で、この木は通称「たまくす」、知る人ぞ知る「有名木」なのである。
 その「たまくす」が、最近弱り気味のため、周囲の土を掘り返し、土中に空気を送り栄養を補給する土壌改良作業を行うことになった。作業中に、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊・焼失した英国総領事館の外塀の瓦礫(がれき)が大量に見つかったという記事が、2008年9月11日付の朝日新聞横浜版に載った。

 歴史を見てきた「たまくす」である。
かなり有名な話なので、どこぞで見聴きしたことがあるかもしれないが、なぞってみる。
 1853年、嘉永6年6月、マシュー・C・ペリーMatthew Calbraith Perry(1794年―1858年)提督が米国艦隊4隻を率い、フィルモア大統領国書を持って浦賀にやってきた。江戸の幕府に開港を強く迫った。世にいう「黒船来航」である。泰平の眠りに冷や水をかけられた。
 大慌ての幕府は、将軍・家慶の病気(ペリーの離日10日後に死去)を理由にお引取り願ったが、翌嘉永7年(1854年)の正月に再度来航したペリーの開戦も辞さずの強硬姿勢に、断れ切れず日米和親条約を結んだ。ここに鎖国の門はこじ開けられた。
 日米和親条約締結の地が、当時小さな農漁村の横浜の、現在の開港資料館あたりであった。「たまくす」は、ペリーが横浜村に上陸した時に、傍観していたのだ。ペリー艦隊の随行画家ウィリアム・ハイネWilliam Heine(1827―1885)の「横浜上陸」や「水神の祠」などに背景として描かれている。
 1858(安政5)年の日米修好通商条約締結を経て、翌1859年に横浜開港となっている。
 1866(慶応2)年の大火では「たまくす」は樹形が変わるほど焼失したものの生きながらえ、さらに1923年の関東大震災では樹木は消滅したが、その根から芽を吹き、生命は絶えることがなかった。まさに奇跡の木といえる。
 土壌改良作業の際、出土したのは、関東大震災時の瓦礫であったのだ。
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 来年2009年に、横浜は開港150年を迎える。150年間生き生きと青葉茂る、横浜の「生き証人」である「たまくす」はなに想うのか。

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